(以下は『人間三国志3』林田慎之助著から抜粋)
陳寿は『三国志』において、「呂布は虎のごとく勇猛だったが、才略がなく、軽佻にして狡猾、裏切りをくり返し、眼中にあったのは利益だけだった」と評している。
呂布は主君にあたる丁原と董卓を、裏切り殺している。
だから「主殺し」の汚名が付いて回る。
その一方で呂布の勇猛と武力は、丁原や董卓に愛され、劉備も頼りにした。
つまるところ、呂布の豪勇を利用した者は、真に活かせなかったのではないか。
利用した側が呂布を育てきれずに裏切られたのではないか。
呂布は字を奉先(ほうせん)といい、并州・五原郡の出身である。
現在の内モンゴル自治区・五原県の出身で、モンゴル人の血が流れていたのかもしれない。
彼は馬術と弓術に優れていたが、モンゴル人の中で鍛えぬいた能力であった。
この能力を買われて、彼は并州刺史の丁原に見出され、その副官となった。
丁原は文字を読めない無教養人で、粗野な人柄で、呂布に似ていた。
丁原は、漢朝の大将軍である何進によって、首都・洛陽に呼ばれた。
何進は朝廷内で宦官たちと権力闘争しており、宦官を皆殺しにする計画を立て、丁原の軍を使おうとしたのである。
丁原は洛陽に入ったが、何進の計画はもれて、何進に宦官に殺されてしまった。
その後、朝廷内の混乱の中で董卓が朝政を牛耳った。
董卓は丁原の軍勢を手に入れたいと考えて、副官・呂布を誘った。
呂布はこの誘いに乗り、丁原を殺して、丁原軍を率いて董卓の配下になった。
189年のことである。
董卓は、呂布を騎都尉(近衛騎兵隊の司令官)に取り立てた。
さらに呂布と父子の契りを結んだ。
暴政をしく董卓は、自分の身を守るため呂布を用心棒にし、常に同行させた。
董卓は短気でかっとしやすく、ある時、呂布に怒って小戟で殴ろうとした。
呂布はさっと身をかわして謝罪したが、この時から董卓を恨むようになった。
また呂布は、董卓の侍女と密通したが、バレるのを恐れた。
董卓政権で司徒の重職にいる王允は、并州・太原郡の出身で、呂布と故郷が近く、呂布と親しくしていた。
呂布は王允の家を訪問した際、董卓に怒られて殺されかけた件(上記の件)を話した。
王允は董卓の暴政を止めるため、董卓暗殺を計画していたので、呂布を仲間にしようとし計画を打ち明けた。
呂布は困惑し、「私と董卓は父子の契りがあります」と言った。
王允は、「あなたの苗字は呂氏であり、董卓と血縁はありません。あなたは生命の心配があり、父子の関係なんて言ってる余裕はないでしょう」と説いた。
呂布は説得され、暗殺計画に加担を決めた。
192年4月に呂布は、献帝の詔書をふところに董卓を襲った。
この詔書は、王允の仲間の士孫瑞が書いたものである。
呂布が「詔書がここにある、賊臣を討つ」と告げると、董卓は「庸狗(ようく)、かくの如くなるや」と罵った。
庸狗、つまり飼い犬と罵られた呂布は、董卓を自ら矛で刺し、兵士にとどめをささせた。
董卓暗殺の直後に呂布は、王允から奮武将軍に任命され、温侯の爵位も授かった。
呂布は漢朝(朝廷)の軍を任される立場となったが、絶頂は2ヵ月も続かなかった。
董卓の配下で、董卓と同じ涼州出身である李傕(りかく)と郭汜(かくし)が、献帝や呂布のいる長安城に攻め寄せたのである。
呂布は防ぎきれず、数百騎だけを連れて長安を脱出し、南陽にいる袁術を頼って落ちのびた。
呂布は脱出のさいに、王允も誘ったが、王允は「朝廷や幼い主君(献帝)は私を頼りにしているので逃亡できない」と断わった。
長安を占領した李傕らは、王允を捕えて、一族十余人もろとも殺した。
長安から逃げた呂布は袁術を頼ったが、これは袁紹や袁術が反董卓軍を立ち上げた時、洛陽にいた袁氏の一族が董卓に皆殺しされており、呂布には仇を討ってやったという思いがあったからだ。
だが袁術は受け入れを拒否した。
仕方なく呂布は袁紹の所に行き頼った。
袁紹は呂布と手を組み、常山にいる黄巾賊の張燕を攻めた。
張燕は1万数千の兵を擁しており、袁紹はそれまで手こずっていた。
ところが呂布は側近の魏越や成廉(せいれん)らと突進して、張燕軍をけちらした。
袁紹は、呂布の戦闘力を見て恐れを抱いた。
そして闇討ちで殺そうと計画した。
呂布はこれに気付き、袁紹の許から脱出して、張楊という同郷人が勢力を張る河内(かだい)に向かった。
呂布が袁紹から離れた時、曹操は兗州刺史になっていたが、徐州の陶謙が曹操の父を殺したため復讐しに徐州を攻めていた。
この曹操の留守をついて、彼の盟友である張邈と陳宮が謀反し、兗州の乗取りを謀った。
陳宮は張邈にこう進言した。
「河内に来ている呂布は勇将であり、彼を迎え入れて共に兗州を治めれば、天下取りのチャンスもつかめるでしょう」
張邈は呂布を迎え入れて、兗州の牧に就けた。
曹操は戻ってきて呂布と戦ったが、呂布の騎兵隊に敗れて逃げ出し、馬からふり落とされて左の手の平にヤケドを負った。
この年は干ばつでイナゴの大群も発生し、空前の大飢饉となった。
そのため曹操は呂布攻めを諦めて、兗州に残された領土である鄄城(けんじょう)に引きあげた。
いっぽう呂布は、食糧を求めて兗州の山陽郡に拠点を移した。これが194年の秋である。
翌195年の秋に、呂布は鄄城を攻めた。
この時、曹操の兵は麦の刈り入れに動員されており千人足らずしか残ってなかった。
そこで曹操は、城内の女性を動員して守備兵に見せかけ、千人足らずの兵で呂布軍を迎撃した。そして散々に打ち破った。
曹操は勝ちに乗じて兗州を平定した。
呂布は逃亡し、徐州を治める劉備を頼った。
(2025年4月9&13日に作成)