(以下は『人間三国志3』林田慎之助著から抜粋)
呂布は兗州の争奪戦で曹操に敗れると、逃げて劉備が治める徐州に入った。
劉備は呂布が来たと知ると、その武力を使おうとし、わざわざ呂布の所にあいさつに行った。
呂布は感激して言った。
「私もあなたも辺境の出身者です。諸将は私を歓迎しなかったが、あなたは違う。こんなに嬉しいことはない。」
呂布は妻を呼んであいさつさせたが、当時はよほど親しい間柄でなければ妻は客の接待に出なかった。
呂布は酒を酌み交わすうちに劉備を弟と呼んだ。
劉備は受け入れたものの、内心苦りきった。
劉備は呂布を仲間に入れて徐州に置いたが、196年に揚州(徐州の南にある州)を支配する袁術が徐州に攻めてきた。
劉備は軍を率いて南下し、淮陰の地で袁術軍と対峙した。
1ヵ月ほど経った時、袁術は徐州城を守っている呂布に手紙を送り、裏切りをすすめた。
「呂布将軍が劉備軍を破ってくれたら、私は糧米20万石をお届けします。それだけでなく引き続き送ります。」
かつて呂布が長安から逃げた時、呂布は袁術を頼ろうとしたが断られている。
この過去を考えても、袁術の誘いは断わるのが普通だろう。
だか呂布は喜んで袁術の誘いに乗り、下邳城を攻めて劉備の妻子を捕らえた。
劉備はこれにより袁術軍に敗れ、兵糧が尽きて呂布に降伏するはめとなった。
ところが袁術は約束の20万石を送らなかった。
呂布は怒り、劉備と仲直りして予州刺史に任命し、小沛城を守らせた。
呂布自身は徐州牧を名乗った。
袁術は、配下の紀霊に3万の兵を授けて、小沛城を守る劉備を攻撃させた。
劉備は呂布に救援を求めた。
この時、呂布の配下は「見殺しにしてはどうですか」と進言したが、呂布はこう言った。
「それは出来ぬ。袁術が劉備を破ると、袁術の支配地が広がり私は包囲される。」
呂布はわずか千余りの兵を率いて、小沛城に向かった。
「呂布が来る」と知った紀霊は、慌てて後退し様子をうかがった。呂布を恐れていたからである。
呂布は小沛城の郊外に陣を作ると、そこに劉備と紀霊を招いて酒宴を張った。
その席上、呂布はこう言った。
「玄徳(※劉備の字)は私の弟です。だから救援に来ましたが、私は性分として闘いを好みません。闘いを解くのを喜ぶ男です。」
呂布は兵士に命じて遠くに1本の戟を立てさせると、弓を取って言った。
「私があの戟の枝刃を射るのを見ていなさい。当たったら両軍が兵を解きなさい。当たらなかったら戦争すればいい。」
弓は見事に枝刃に命中し、紀霊は息をのんで呂布をたたえ、和睦が成立した。
上記の一件は、呂布が武勇を誇示して相手を威圧し和睦させたわけだが、劉備は釈然としなかったらしく、少しすると主君を曹操に替えてしまった。
197年に袁術は、皇帝を名乗った。
袁術は皇帝になると、荒淫と奢侈がさらに悪化し、後宮の女たちは贅沢に暮らしたが、兵士や農民は食べ物さえ無くなり、お互いに食いあう惨状となった。
袁術は、従兄の袁紹と仲違いし、隣国の荊州を支配する劉表とも仲が悪くて、遠い幽州の公孫瓚と同盟していた。
ところが公孫瓚が袁紹に敗れて滅亡したので、袁術は新たな味方として呂布に目をつけた。
袁術は呂布に使者を送り、「息子の嫁にあなたの娘を迎えたい」と伝えた。
呂布は、劉備が曹操の配下になってしまった今、自分の力だけでは危ういと考え、この話に乗ることにした。
その直後、呂布の部下の陳珪は、名門の出身で袁術とも親交していたが、すでに袁術を見限っていたので、こう進言した。
「曹操殿は漢朝の皇帝を抱えており、その威光から天下を平定する勢いです。呂布将軍は曹操と協力関係を築くべきです。」
陳珪の話を聞いて考え直した呂布は、すでに出発していた娘を連れ戻し、袁術の使者として来ていた韓胤を捕えて曹操のいる許昌に送った。
韓胤は許昌でさらし首になった。
呂布のところに許昌から献帝の勅使が来て、褒美として呂布は左将軍に任命された。
呂布は、任命のお礼として陳珪の息子・陳登を許昌に行かせて、呂布を徐州の牧にするよう外交させることにした。
ところが陳登は許昌で曹操に会見すると、呂布をこきおろし、こう評した。
「呂布は策略に乏しい上、いつ背くか分からない男です。始末するにかぎります。」
曹操は同意し、「呂布は狼の子で、飼いならせない奴だ。君は呂布の動静から目を離さないでくれ」と言った。
朝廷は陳珪に大きな加増をし、陳登も広陵太守に任命された。
陳登が帰ってくると、呂布は徐州牧に任命されなかったことに怒り、戟で机を叩き割ってどなった。
「私は曹操に協力して、袁術との婚約を破棄した。それなのに見返りがない。
お前たち親子だけが大事な扱いを受けている。」
陳登はたじろがず、次のように答えた。
「私は曹操殿に言いました。『呂布殿は虎のようなもので、腹一杯に与えないと飼い主を食い殺します』と。
すると曹操殿は、『呂布は鷹だ。飢えさせておけば役立つが、満腹だと飛び去ってしまう』と言いました。」
これを聞くと呂布は納得し、怒りを解いた。
いっぽう袁術は、呂布に婚約を破棄されたことで怒り狂い、数万の大軍で呂布の治める徐州を攻めた。
呂布は陳珪の策を採用し、袁術軍の内部で離間を起こして撃退した。
袁術は矛先を転じて曹操を攻めたが、大敗北を喫した。
198年に呂布は、曹操と対決する覚悟を決め、弱り目の袁術と仲直りした。
そして配下の高順に、劉備が守る小沛城を急襲させた。
この年の9月に小沛城は落ちて、劉備は落ち延び、劉備の妻子は呂布軍に捕まった。
10月に曹操は自ら呂布の討伐に出たが、そこに劉備は合流した。
曹操軍が攻めて来たとき、呂布の参謀の陳宮は、「曹操軍は遠征で疲れているから、いま戦えば勝てます」と進言した。
だが呂布は、「そう慌てることはない」と言って動かなかった。
ところが曹操軍が来ると、広陵太守の陳登が寝返って曹操軍に合流してしまった。
呂布のこもる下邳城は包囲され、呂布は打って出たが負けて、勇将の成廉が生け捕られた。
呂布が降伏しようとすると、陳宮は「今さら降伏しても命を全うできるはずかない」と止めた。
呂布は袁術に援軍を求めたが、袁術は「娘を私にくれなかったではないか」と言って拒否した。
呂布は娘を袁術に与えることにし、ある夜に娘を連れて城を出たが、すぐに見つかり矢を射かけられたので城に戻った。
参謀の陳宮は、呂布に進言した。
「曹操軍は遠征してきたので弱っています。
呂布将軍が兵を率いて城外に陣を構え、私が城に残り、連携して挟撃しましょう。
あと10日ほどで敵の兵糧は底をつくので、その時にいっせいに攻めれば勝てます。」
だが呂布の妻が、陳宮の退出後にこう言った。
「曹操は陳宮を厚遇したのに、陳宮は曹操を見捨ててあなたに付きました。
あなたの陳宮の遇し方は曹操に及びません。それなのに城を彼に委ねて妻子を置いて打って出るのですか。」
呂布は陳宮の策を採らなかった。
ちなみに呂布の妻は美人だったようだ。
曹操軍に加わっていた関羽は、「下邳城が落ちたら呂布の妻を私に下さい」と、何度も曹操に言上している。
だが曹操は呂布の降伏後、この妻を見ると気に入り、自分の愛人にしてしまった。
下邳城から呂布が出てこないので、曹操は引き上げようとしたが、参謀の荀攸と郭嘉が諫止した。
それで曹操は持久戦に切りかえ、水攻めに出た。
水攻めは3ヵ月も続いたが、ある日、呂布の部将・侯成の食客が、侯成の持つ名馬に乗って曹操軍に寝返ろうとした。
侯成は追いかけて馬を取り戻したが、呂布軍の諸将たちは「良かった、良かった」と喜び、贈り物を侯成に届けた。
侯成は返礼として酒と肉を用意し、呂布にも届けたところ、呂布は「酒は禁じているはずだ。酒宴で集まり私を裏切る相談でもするのか」と激怒した。
侯成は腹にすえかねて、陳宮と呂布の腹心である高順の2人を捕縛し、それを手土産に曹操軍に投降した。
『英雄記』によると、高順は清廉潔白で威厳があり、酒を飲まず、贈り物も受け取らない立派な人だった。
従う兵たちも優秀で、高順は戦争で必ず勝つので「陥陣営」(かんじんえい)のあだ名を持っていた。
高順は呂布をいさめる事が多く、呂布もその忠義を認めていたが意見を採用することはなかった。
呂布の配下には、後に曹操の下で勇名をはせる張遼もいた。
呂布が「天下の猛将」と呼ばれたのは、こうした勇将に支えられていたからである。
残念ながら呂布には、彼らを活かす器量が無かった。
陳宮と高順がいなくなると、呂布は裸同然となり、自ら曹操に降伏した。
縛られて曹操の前に引き出された呂布は、「これからは貴公が歩兵を率いなされ。私が騎兵を指揮すれば、労せずに天下は定まりましょう。」と言って、必死に自分を売り込んだ。
曹操が思案にかかった時、すかさず劉備が進み出て言った。
「この男がかつて主人の丁原と董卓にどのように仕えたか、よもやお忘れではありますまい」
これで曹操は処刑を決め、呂布の首は陳宮、高順の首と共にさらされた。
(2025年4月13日に作成)