(以下は『人間三国志3』林田慎之助著から抜粋)
趙雲は、字を子竜という。
冀州・常山郡真定県の出身で、身長が8尺(1.9m)もあり、顔つきも立派だった。
彼は黄巾の乱などで治安が悪化すると、常山郡から推挙されて義勇軍の首領となった。
そして191年に、幽州(現在の北京のあたり)を根拠とし青州や徐州の黄巾軍まで撃破している公孫瓚に会い、配下となった。
公孫瓚は、幽州・遼西郡令支県の出身である。
秀でた人材なので遼西郡の太守が自分の娘と結婚させ、琢郡に学舎を開いている学者・盧植の所に留学させた。
この学舎で公孫瓚は、後輩の劉備と知り合った。
趙雲が公孫瓚の配下になった時、すでに公孫瓚の勇名は鳴りひびき、異民族から白馬将軍と恐れられていた。
幽州は異民族が多く住んでいたが、公孫瓚は白馬を集めた騎兵隊を率いて討伐していたからである。
趙雲が来た時、公孫瓚は問うた。
「君の州の住民は皆が袁紹に付くのを願っているそうだが、君はどうして私の所に来たのかね」
趙雲はこう答えた。
「天下は喧騒をきわめ、誰が正しいか分からず人民は苦しんでいます。
わが州は仁政を行う者に従うだけです。袁紹を軽視し、貴方を贔屓するわけではありません。」
「仁政の在る所に従う」とは、なかなか味な言葉である。
公孫瓚の所には、黄巾軍の討伐に参加したが芽の出ない劉備が頼ってきており、配下になっていた。
趙雲はここで劉備と知り合い、親交を結んだ。
公孫瓚は配下の田楷に青州を治めさせていたが、そこに袁紹軍が攻めてきた。
公孫瓚は劉備を援軍で派遣したが、この時に趙雲は初めて劉備の指揮下に入った。
趙雲は公孫瓚に仕えて1年足らずで、兄の喪に服すると言って故郷に帰ることにした。この時に劉備は別れを惜しんだが、趙雲は「絶対にあなたの恩徳を裏切りません」と告げた。すでに2人には強い結びつきが出来ていた。
故郷の常山に帰ってから8年間の趙雲の消息は、史書になく分からない。
200年に劉備は、曹操の下にいたが裏切り、怒った曹操に攻められて単身で袁紹の所に逃げてきた。
劉備が袁紹の根拠地である冀州・鄴に住み始めると、常山から趙雲がやって来た。
鄴と常山は遠くない。劉備のことを聞いたのだろう。
この時の劉備は、関羽は曹操に捕まり、張飛は行方不明で、一人ぼっちだった。
だから趙雲を見た劉備の喜びは大きく、2人は同じ床に就いては今後の策を練ったという。
劉備は趙雲に私兵を募らせて、数百人の私兵を得た。
そのうちに曹操軍に負けた時に散り散りになった将兵が、劉備の下に再結集し始めた。
201年になると、袁紹と曹操は決戦することになり、袁紹は劉備に「豫州の汝南郡あたりで黄巾軍を扇動して暴れろ」と命じた。
劉備は趙雲らと共に汝南に行き、黄巾軍と連携して曹操の陣営を荒らし回った。
破壊活動中の劉備軍に、曹操の客将をしていた関羽が合流した。
袁紹軍は、官渡の戦いで曹操軍に敗れた。
このため劉備たちは汝南から荊州に逃亡し、荊州を治める劉表を頼った。
劉表は袁紹と同盟関係にあり、同じ劉氏という事もあって劉備を受け入れて、新野城主に任命した。
劉備たちは、攻めてきた曹操配下の夏侯惇と博望で戦った。
この戦いで趙雲は夏侯蘭を生け捕りにしたが、2人は同じ常山郡の出身で、幼少の頃から知り合いだった。
趙雲は、劉備に「夏侯蘭を殺さず、法律に明るいので軍正に起用すべきです」と進言し、ゆるされた。
軍正は、軍中の法律をつかさどる職である。
208年7月に曹操は、自ら指揮して荊州に攻めてきた。
ちょうどこの時、劉表は危篤状態で、8月に病死して息子の劉琮が後を継いだ。
劉琮とその側近たちは、曹操に降伏した。
劉琮が降伏した時、前線の城を守る劉備の近くまで曹操軍が迫っていた。
劉備たちは曹操に降伏せず、兵糧や武器を貯蔵している江陵城に行こうと南下した。しかし曹操軍に 長阪という所で追いつかれ戦闘になった。
劉備はこの時、妻子を捨てて一早く逃げた。
趙雲は40騎ほどの部下と共に、後方に取って返して劉備の妻子を救出しに向かった。
趙雲が取って返すのを見た者が、「趙雲が寝返った」と報告したところ、劉備は怒ってその者を手戟で打ちすえ、「子竜は私を見捨てたりしない」と叱った。
趙雲は妻子を連れて戻ってきた。
荊州を奪いさらに南下しようとした曹操だが、赤壁の戦いで敗れた。
曹操軍が撤退すると、劉備は長江の南にある荊州の4郡を奪い取った。
趙雲はそのうちの1郡である桂陽郡の太守に任命された。
劉備に解任された桂陽太守・趙範には、樊氏(はんし)という美人の兄嫁がいて、未亡人だった。
趙範はこの女を趙雲の妻にしようと謀ったが、趙雲は「同姓ですので」と言って断わった。
趙雲は「趙範は降伏したが、心底はまだ分からない」と、断った理由を別の者に説明した。
まもなく趙範は桂陽から逃亡した。
劉備が益州に進軍した時、荊州に残った趙雲は劉備から奥向きのことを任された。
当時、劉備は甘夫人を亡くし、孫権の妹を新たに妻にしていた。
この孫夫人は、驕慢のふるまいが多く、呉から連れてきた女官や兵を率いてやりたい放題していた。
そこで劉備は趙雲に後宮の引き締めを任せたのだ。
孫権は、劉備が益州に入ると「約束違反」と怒り、孫夫人を取り返すため船団を公安に派遣した。
甘夫人が産んだ劉禅は、孫夫人が育てていたが、孫夫人は劉禅を連れて呉に帰ろうとした。
趙雲はそうはさせじと、張飛と共に兵を率いて呉の船団を遮り、劉禅を取り戻した。
益州に入った劉備軍は、213年夏に急に益州の州都である成都に向けて進軍を始め、益州の乗っ取りにかかった。
しかし成都に近い雒城まで攻め寄せたが、そこを突破できず、軍師の龐統が戦死した。
この知らせを受けた諸葛亮は、趙雲や張飛を率いて益州に向かった。
諸葛亮の軍はまず巴東地方を降伏させ、現在の重慶市にあたる江州城も攻め落とした。ここで諸葛亮は軍を2つに分け、張飛軍は北上させて巴西から徳陽へ、趙雲軍は西進させて犍為(けんい、成都の南西にある)に向かわせた。
総力をあげて攻めた結果、214年夏にようやく成都を落とした。
劉備は益州を占領すると、功労のあった諸将に土地や田畑を分け与えようとした。
これに趙雲は反対し、こう述べた。
「益州の民衆は兵禍にかかったばかりで、彼らに田畑や住宅を返還すべきです。
住宅を返し、仕事に復帰させ、そののちに賦役や微発をするならば、民は従うでしょう。」
新しい支配者が土地を論功行賞としてばらまけば、民衆の反発を買うばかりである。
益州を戦禍の巷と化したのは劉備軍であり、まずすべきは民の生活の安定であった。
「仁政」を求める趙雲の志が現れた献策で、劉備はすぐさま採用した。
219年1月に劉備は、漢中の定軍山に陣を構え、魏の夏侯淵軍と対峙した。
この戦いには張飛、黄忠、趙雲も従軍し、夏侯淵を討ち取った。
すると3月に曹操は自ら兵を率いて漢中に来て、北山のふもとに布陣した。
黄忠は魏軍の兵糧を奪おうと考え、趙雲麾下の兵士も連れて北山に向かった。
ところが黄忠たちが帰ってこないので、趙雲は様子を見に数十騎を率いて北山に向かった。
そこへ曹操軍が現われ、戦闘になった。
少数の趙雲軍は負けたが、被害をおさえて退却に成功した。
曹操軍が追ってきたので、張翼は城門を閉めて守るべきと主張した。
だか趙雲は城門を開かせて、旗を伏せ、太鼓の打つ手も止めさせた。
静まった城内を見て曹操軍は伏兵を疑い、退き始めた。
そこに趙雲が突如として太鼓を雷のように打ち鳴らし、曹操軍の背後に弩(いしゆみ)を射かけた。
驚いた曹操軍は逃げ出し、漢水の流れに落ちて多数の死傷者を出した。
翌日、劉備は昨日の戦場を見て回り、「子竜の一身はすべて胆なり」と讃えた。
221年に劉備が呉を攻めようとした時、官僚の秦宓(しんぷく)は反対の上奏をしたが、 劉備は怒って投獄してしまった。
この時、趙雲も反対して、こう述べた。
「国賊は曹操であり、魏を滅ぼせば孫権(呉)も降伏するでしょう。
曹丕が曹操の後を継ぎ、帝位を奪いました。
天下の人々はこれに服していないので、この人心を利用して魏を攻めれば、漢朝に心を寄せる者は馳せ参じて我が軍を迎えるでしょう。」
だか劉備は耳を貸さず、呉を攻めた。
この呉攻めでは、趙雲は従軍せずに江州で守りを固めた。
劉備は呉軍に敗れて白帝城まで逃げ戻り、そこで病死した。
227年に諸葛亮は「出師の表」を発表し、北伐に着手した。
228年の第一次・北伐では、諸葛亮は斜谷道を通って関中に向かうと喧伝しつつ、主力軍で祁山を攻撃する作戦をとった。
趙雲は鄧芝と共に、別働隊を率いて斜谷道を進み、おとりとなった。
魏の総司令官となった曹真は、大軍を率いて斜谷道に現われたので、おとり作戦は成功した。
少数の趙雲軍は敗れたが、被害をほとんどなく撤収に成功した。
だが主力軍の諸葛亮たちは、馬謖が張郃に破れて大敗した。
第一次・北伐の敗戦後、諸葛亮は将兵たちの労に報いるすべがなく、軍需品の中から絹を将兵に分け与えようとした。
これに趙雲は反対し、「負け戦なのにどうして下賜があるのですか。10月なるのを待って、冬の仕度品として下賜なされますように」と助言した。
229年に趙雲は病死した。60歳くらいだったろう。
(2025年4月14&16日に作成)