(以下は『人間三国志3』林田慎之助著から抜粋)
馬超は、字は孟起で、扶風郡の出身である。
先祖には、後漢の光武帝に仕えてベトナム辺りまで遠征した有名な将軍・馬援がいる。
馬超の祖父・馬粛は、桓帝の時代に涼州・天水郡蘭于県の尉(警察署長)になったが、失職して羌族の娘をめとり、羌族と暮らした。
羌族とは、牧羊して暮らすチベット系の民族である。
余談だが、後に五胡の1国を築いた姚秦(ようしん)は羌族の人である。
馬超の父・馬騰は、羌族の娘が産んだ。
つまり馬超は、羌族の血が入っている。
馬騰は身長が8尺(193cm)もあり、信義にあついので人気があった。
馬騰は若い頃は貧しく、山で材木を切り、自らそれを運んで市場で売っていた。
霊帝の未年に、涼州で氐族・羌族が反乱した時、馬騰はその鎮圧で頭角を現わした。
そして192年に董卓の求めで長安の都に呼ばれ、征西将軍に任命された。
『資治通鑑』によると、呂布が董卓を殺して李傕と戦争した時、馬騰は挙兵して長安を奪おうとした。
これに献帝の側近が内応し、涼州軍閥の韓遂も加わった。
李傕は大軍をさしむけて馬騰・韓遂軍を破り、馬騰らは涼州に逃げ帰った。
その後、李傕は馬騰を懐柔しようとし、194年4月に安狄将軍に任命した。
馬騰と韓遂はやがて、涼州の領土をめぐって戦争を始めた。
197年に荀彧は、曹操に進言した。
「関中(長安より西の地方)は、韓遂と馬騰が最も強い軍閥です。
彼らを思徳をもって撫すれば、あなたが山東の呂布を討伐する間も彼らは動かないでしょう。
鍾繇(しょうよう)は知謀をもつので、彼に任せれば良いです。」
曹操はこの意見に従って、鍾繇と涼州牧の韋端が使者となって、馬騰と韓遂を和解させ、馬騰を槐里(かいり)に駐屯させて前将軍に任命した。
馬騰は槐里の領主として暮らし善政を行ったが、208年に、後漢の丞相となった曹操から衛尉(朝廷の警備をする職)に任命され、上京した。
馬騰の他にも、馬超の弟の馬休と馬鉄も官職をもらい、彼らは揃って鄴の都に移住した。
曹操は、馬超にも官職を用意したが、馬超は断わった。
馬超は槐里に残り、父の跡を継いだ。
211年3月に曹操は、漢中を治める張魯を討つと言って、鍾繇に出陣を命じた。
司隷校尉の鍾繇は、関中(長安より西の地方)の事情に精通していた。
高柔が、「韓遂や馬超は、自分たちが討たれると考えるかもしれません」と忠告したが、曹操は無視した。
曹操は、韓遂らも討つつもりだったのだろう。
当時の関中には、馬超と韓遂の他にも、侯選、程銀、楊秋、李堪(りかん)、張横、梁興(りょうこう)、成宜(せいぎ)、馬玩(ばがん)の8将が割拠していて、「関中の十部」と呼ばれていた。
高柔の予測通りに、この10将は連合して造反した。そこで曹操は自ら討伐に向かった。
10将の軍勢は10万人で、天然の要害である潼関に立てこもった。
曹操は正面から攻撃しても潼関は落とせないと見て、渭水を北に渡って後ろから攻めることにした。
曹操軍が渭水を渡り始めると、馬超は潼関を出て矢を射かけた。
曹操は渡河する兵たちを援護するため最後まで踏みとどまっていたが、親衛隊長の許褚に助けられて上船した。
曹操の船に乗ろうと味方の兵が船べりにとりすがったので、船は転覆しそうになった。許褚はその味方兵を斬って捨てた。
さらに許褚は曹操めがけて飛んで来る矢を、馬の鞍を手に持って防いだ。
この時、曹操軍の校尉である丁斐(ていひ)は、自軍の牛馬を解き放った。
馬超軍の兵士は、牛馬の群れを見て我がものにしようと捕えにかかり、曹操らを見逃してしまった。
かつて馬騰と韓遂が領土争いをしていた時期に、馬超の母は韓遂に殺された。
このため馬超と韓遂の関係はぎくしゃくしていた。
曹操はこれを知っていて、2人の仲を割くことに成功した。
馬超らの連合軍は結束できなくなり、曹操軍に敗れた。
馬超は涼州まで逃げていき、曹操軍は安定郡まで追撃したが、そこで軍を引きあげた。
曹操は都に帰還すると、馬騰とその一族を皆殺しにした。
曹操が関中から引きあげる際、涼州刺史・韋康(※韋端の息子で後を継いでいた)の参謀をする楊阜(ようふ)が、曹操にこう進言していた。
「馬超は武勇をもち、羌族の心をつかんでいます。
馬超に対する防備をしなければ、隴上の諸郡は彼に奪われるでしょう。」
だが曹操は何の対策もしなかったので、馬超は隴上の諸郡を攻撃して奪い取った。
なお隴上とは、隴山のほとりを指す言葉である。
馬超が羌族を率いて隴上の郡県を攻撃した時、涼州刺史の韋康だけが冀城にこもって抵抗した。
漢中の張魯が馬超に支援兵を派遣したのもあり、1万を超える馬超軍が冀城を囲んだ。
韋康の参謀をする楊阜は、従弟の楊岳と共に馬超軍との戦いを主導し、8ヵ月も城を守ったが、曹操は援軍を送らなかった。
窮した韋康は閻温(えんおん)を救援要請の使者にして城を脱出させたが、馬超軍に見つかり殺されてしまった。
韋康が降伏しようとすると、楊阜は泣いて諫めた。
だが韋康は城門を開き降伏した。
馬超は「苦しまぎれの降伏で信用できない」と言って、韋康ら40余人の首をはねた。
ところが楊阜については、「義を守った」と言って参謀に起用した。
馬超は韋康を殺すと、冀城を拠点にし、征西将軍と并州牧を自称した。
楊阜は馬超を打倒する機会を狙ったが、妻が亡くなったので休暇をもらうと、歴城にいる従兄の姜叙を訪ねて、泣きながらこう話した。
「城を守りぬけず主君を失い、死ぬことも出来ませんでした。
馬超は主君や涼州の将を殺しました。賊の馬超を討伐しましょう。
馬超は強いが道義がなく、隙の多い奴です。」
楊阜の話を一緒に聞いていた姜叙の母は、息子に命じて馬超討伐の計画に参加させた。
馬超討伐の計画には、姜隠、趙昂(ちょうこう)、尹奉、姚瓊(ようけい)、孔信、李俊、王霊、梁寛、趙衢(ちょうく)も参加した。
212年の秋に、楊阜らは挙兵した。
冀城にいた馬超は、楊阜を攻めに出陣したが、馬超がいなくなると趙昂、趙衢、梁寛が冀城で反旗をひるがえし、馬超の妻子を殺した。
馬超は趙昂の息子・趙月を人質として同行させていたが、この事を知ると趙月を殺した。
馬超は楊阜のいる鹵城を攻めたが落とせず、冀城にも戻れず、仕方なく歴城を攻め落として姜叙の母を捕えた。
姜叙の母は、「お前は父に背き、主君を殺した凶賊じゃ。どの面下げて人を見るのか。」と馬超を罵った。
馬超は怒り、彼女を殺した。
楊阜は馬超と戦い続け、身体に5つの傷を受け、弟が7人も戦死しつつ、馬超を破った。
敗れた馬超は、龐徳ら数騎だけを従えて、漢中の張魯を頼っていった。
張魯は馬超が来ると、自分の娘を娶らせようとした。
だが「馬超はあんなに身内を愛さない人間ですよ」と忠告する者があり、やめた。
馬超は行動するうち、身内の者が皆殺しになった、悲劇の猛将であった。
馬超は張魯に兵を借りて涼州の奪回を図ったが、うまくいかなかった。
そのうちに張魯の配下の楊昂らが馬超を敵視して殺そうとした。
214年、益州を奪うため成都を攻囲していた劉備は、馬超が張魯の所で邪魔者扱いされていると知ると、李恢を使者にして自分の所に来るよう誘った。
それで馬超は張魯の下から逃亡し、成都を囲む劉備軍に合流した。
劉備は喜び、「これで私は益州を手に入れたぞ」と言った。
成都にいる劉璋らは、馬超が来たのを知りおののいて、10日も経たずに降伏した。
劉備は益州を占領すると、馬超を平西将軍に任命し、荊州の臨沮を治めさせた。
219年に劉備が漢中王を称すると、馬超は左将軍に任命され、蜀の五虎大将の1人となった。
221年に劉備が蜀漢の皇帝になると、馬超は涼州牧に任命された。
だが翌222年に47歳で病死した。
死ぬ前に馬超は、こう劉備に願い出た。
「私の一門は200人余りも曹操に殺され、従弟の馬岱だけが生き残っています。
家の祭祀を継ぐ男として、くれぐれも陸下にお託しいたします。」
のちに馬岱は平北将軍の位まで上り、陳倉侯の爵位を受けた。
(2025年4月27日に作成)