タイトル于禁
厳格な剛将

(以下は『人間三国志3』林田慎之助著から抜粋)

于禁は、字は文則といい、兗州・泰山郡鉅平県の出身である。

霊山として有名な泰山のふもとで育ったが、諸葛亮もこの近くで幼少期を過ごしている。

『三国志』では、曹操配下の将軍のうち、張遼、張郃、楽進、徐晃、于禁の5人を並べて伝記をのせている。

編著者の陳寿は、于禁について「5将の中でも最も剛毅で厳格と言われていた」と記している。

黄巾の乱が起きると、于禁の住む泰山郡でも黄巾軍が暴れた。

泰山郡出身の鮑信が黄巾討伐の軍を立ち上げた時、于禁はこれに加わった。

鮑信は首都・洛陽の権力者である何進に呼ばれて、近衛兵の司令官に任命された。
おそらく于禁はこの時に近衛兵になったと思われる。

やがて董卓が洛陽を制圧すると、鮑信は泰山郡に戻り、190年に反董卓の連合軍が結成されると挙兵して参加した。

鮑信はここで曹操と親しくなり、兗州刺史の劉岱が黄巾軍と戦って死ぬと、兗州を曹操が支配するのを助けた。

192年晩春に鮑信は、兗州の黄巾軍との戦いで、曹操を乱戦の中で救出したが、自分は戦死してしまった。

鮑信の下にいた于禁を、「大将軍になるだけの才能を持つ」と曹操に推薦したのは、王朗だった。

曹操は于禁を軍司馬に任命した。

194年に曹操が徐州の陶謙を攻めた時、于禁は功を立てて部隊長に昇進した。

196年2月に汝南・潁川の黄巾軍が、何儀、劉辟、黄邵らに率いられて暴れた時、于禁は曹操に従って討伐した。

黄邵らが夜襲してくると、于禁は防戦して黄邵を斬り、この功で平虜校尉に昇進した。

197年の春正月に、曹操に降っていた張繡(ちょうしゅう)が、自分の兄・張済の未亡人を曹操が愛人にしたのに怒って、曹操を夜襲した。

この時に曹操軍は大敗し、長男の曹昂や警護役の典韋が戦死した。

だか于禁は、曹操軍が大混乱する中でも部下数百人を統率し続け、戦いつつ離散者を1人も出さずに撤退した。

この撤退の最中、于禁は裸で逃げる味方の兵士に出会った。
于禁が「どうしたのか」と尋ねると、兵士は「青州兵に掠奪を受けました」と答えた。

曹操は青州の黄巾軍と戦って降伏させた際、精鋭の者を選んで自軍に入れ、青州兵と呼ばせていた。

青州兵が合戦で活躍するので、曹操は目にかけて優遇していた。

青州兵はそれにつけこんで、軍律を破り、味方を掠奪したのである。

軍律に厳しい于禁は怒り、味方の青州兵に攻撃をかけた。
青州兵は逃げて、曹操に「于禁が攻撃してきた」と訴えた。

この事を于禁に報告する者がいたが、于禁は「今は張繡軍が背後にいて、追撃が来るだろう。その備えが先だ。曹操殿は聴明なので、でたらめな訴えは役に立たないはず。」と答えた。

そして追撃に備える陣地を構築してから、曹操の陣に行って青州兵の件を話した。

曹操は喜び、「古代の名将でもこれ以上あり得ようか」と讃えて、益寿亭侯に取り立てた。

199年10月に袁紹が大軍で攻めてきた。
于禁は「前線で戦いたい」と希望し、延津城(えんしん)を守ることになった。

200年2月に袁紹は、配下の顔良に白馬城を攻めさせた。
白馬城を守るのは東郡太守の劉延であった。

曹操軍は白馬城の西南にある延津城に入った。

曹操は4月に、荀攸の策を採用し、一部の部隊に黄河を渡らせて北上させ、袁紹軍の背後に向かわせる陽動作戦に出た。
これは袁紹軍を2つに分ける狙いだった。

袁紹は策にはまり、大軍を率いて陽動部隊に当たろうとした。

曹操はすかさず延津城から白馬城に向かい、包囲している顔良軍を破って顔良を討ちとった。

袁紹のほうは、移動を続けて延津城の攻撃にかかったが、于禁が守り続け、曹操軍が戻ってきた。

于禁は5千の兵を率いて袁紹軍の陣営に攻撃をかけ、袁紹の将軍である何茂や王摩ら20余人の部将を降伏させる手柄を立てた。

これらの功で于禁は裨将軍に昇進した。

8月に袁紹軍は延津城を落とし、曹操軍は官渡城に引きあげた。

官渡から許昌の都まではわずか20kmであり、ここは死守しなければならなかったが、曹操は官渡の戦いで大勝した。

官渡の戦いの後、東海地方で昌豨(しょうき)が反乱したので、于禁が討伐に向かった。

昌豨は元は呂布の配下で、同僚だった張遼のはからいで曹操に降伏し、東海地方を治めていた。

于禁と昌豨が友人だったのもあり、于禁が来ると昌豨は降伏した。

諸将は戦わずに降伏した昌豨を、曹操の所に囚人として送るべきと説いたが、于禁は軍律を盾に拒み昌豨の首をはねた。
曹操はこれを知ると、さらに于禁を重用した。

『三国志』に注を加えた裴松之は、于禁が友人の昌豨を護送せずに斬ったことを「殺害を好んだ」と評し、後に于禁が降伏者となり悪い諡(おくりな)を与えられたのは当然の報いだと結論している。

219年に蜀の関羽は、魏の荊州における拠点である樊城を攻めた。

曹操は于禁と龐徳に命じて、樊城の救援におもむかせた。

だが秋の長雨で漢水は洪水となり、于禁らは高地で孤立してしまい関羽軍に降伏した。
この時、于禁は降伏したが、龐徳は降伏せず処刑された。

曹操はこれを聞くと「私が于禁を知って30年になるが、困難にあって龐徳に及ばないとは思いもよらなかった」と長嘆息したという。

この後、呉の孫権が曹操と密約して関羽を背後から攻め殺したので、江陵城にて捕虜になっていた于禁は呉に連行された。

孫権は名将・于禁を気に入り、ある日の外出に同行させた。

ところが虞翻(ぐほん)はそれを見ると、「降伏した捕虜の身でわが君と馬首を並べるとは何事ぞ」と怒鳴り、ムチで于禁を殴ろうとした。
孫権が一喝して事なきを得た。

虞翻は「しばしば酒失あり」と『三国志』にあり、酒乱の気があったようだ。

虞翻は呉において張昭と並ぶ大学者だったが、不遜な行動が多く、孫権は最後には交趾(ベトナムのあたり)に追放している。

220年に曹操は病死したが、息子の曹丕は献帝を廃して、自ら皇帝となった。

曹丕が帝位につくと、孫権は藩国の礼をとって臣従の姿勢をみせ、捕虜にしている于禁を魏に送り返した。

この時も虞翻は、「于禁は降伏し死ぬこともできなかった男で、魏に送るのは盗人を放つようなものです。斬って捨てて見せしめにするのがよい」と言った。

虞翻に嘲笑され続けた于禁だが、恨まずむしろ盛んに虞翻を讃えていた。

洛陽に帰還し文帝(曹丕)に会見した于禁は、ヒゲも髪もまっ白で、げっそりとやつれていた。

涙を流して頭を地につけてお辞備する于禁を、文帝は慰めて安遠将軍に任命した。

間もなく文帝は、于禁を鄴にある曹操の陵(墓)に参拝させた。
文帝はあらかじめ陵の建物に、樊城で関羽に降伏する于禁の絵を描かせていた。

于禁はそれを見ると、恥と憤りから病発し、死んでしまった。

司馬光の書いた『資治通鑑』は、文帝(曹丕)の酷薄さをこう詳している。

「文帝は于禁が帰還した時に、免職にすることも殺すこともできた。それをせずに御陵内に絵を描いて于禁を辱めたのは、君主として失格である。」

これこそ史家の筆誅である。

于禁は上述のように『三国志』の注では酷評されていたが、北宋時代になって『資治通鑑』でやっと名誉を回復した。

(2025年4月29日に作成)


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