タイトル甘寧
元水賊の任侠武将

(以下は『人間三国志3』林田慎之助著から抜粋)

『三国志』の中で、呉の甘寧の列伝は、彼の特異さを見事に描いている。

甘寧は字を興覇といい、益州・巴郡臨江県の出身である。

甘寧は若い頃に蜀郡の役人となったが、しばらくして職を辞し実家に戻った。
それからは遊侠の世界に入り、首領格となった。

彼はいつも腰に鈴を下げていて、人々は鈴の音で彼が来たと分かった。

彼は遊侠の若者を集めて、舟であちこちを回り、自分たちを歓待しない役人は襲って財貨を奪った。

そのうち800人ほどの手下を連れて、荊州を治める劉表に臣属した。

甘寧は劉表に天下を取る意志がないと見て、呉の孫氏に仕えようと出奔した。

ところが夏口に来たところで劉表配下の黄祖に捕まった。そして黄祖に仕えることになった。

203年に孫権と黄祖は戦争したが、黄祖は敗れて追撃を受けた。
この時に殿(しんがり)をつとめた甘寧は、得意の弓で孫権軍の校尉である凌操を射殺し、黄祖軍を逃がした。

黄祖は、甘寧が戦争で活躍しても、元が水賊だったことから重用しなかった。

黄祖の下で都督をつとめる蘇飛は、甘寧を高く評価していたので、こう助言した。

「私がいくら君を推薦しても、黄祖殿は用いようとしない。
ここを離れて良い主君を見つけなさい。」

甘寧は呂蒙を仲介者として、数百人の部下を連れて孫権に臣属した。

甘寧は孫権の配下になると、孫権にこう具申した。

「荊州を治める劉表は遠慮に欠け、その子も愚かです。
彼らでは荊州を保てず、孫権殿が早く荊州を取らなければ曹操のものになるでしょう。

まず黄祖を討ち取るべきです。黄祖は老いぼれており、私財を積むために人々から絞り上げるので恨まれています。

黄祖の軍船や武器は古いままで、軍規もたるんでいるので、攻めれば破れます。

黄相を倒して西進すれば、巴蜀(益州)を取ることもできるでしょう。」

この提言に、重臣の張昭が反対した。

「呉の民は戦争を危ぶんでいます。もし軍勢を動かせば内乱を招くでしょう。」

甘寧が言い返した。

「呉ではあなたが蕭何(しょうか、劉邦に仕えた名臣で内政を担当した人)の任務をしている。
あなたが内乱を憂えるのならば、どうして蕭何のように軍事に口を出さず内政に勤めないのか。」

孫権は甘寧に酒をすすめてなだめた。

208年に孫権は、夏口の黄祖を攻めて、黄祖を捕えて処刑した。

孫権は、父・孫堅を黄祖および蘇飛との戦争で失っていた。
だからかねてから、この2人を仇討ちとして殺そうと考えていた。

黄祖と共に蘇飛も捕まったが、甘寧は孫権ら諸将のために酒席を設けると、頭を地面に叩きつけてお辞儀し、蘇飛の命乞いをした。

甘寧が言った。
「蘇飛は私の恩人で、彼と会わなかったら私はドブ溝の中に死体をさらしていたでしょう。どうか彼の首を私に頂きたいのです。」

孫権は言った。
「お前のために彼の命を助けよう。だが彼が逃亡したら、どうするつもりか。」

甘寧は「逃亡しないでしょうが、もし逃亡したら代わりに私の首をさし上げます」と答えた。

呉将の凌統は、父・凌操をかつて戦争で甘寧に殺されていた。
そのため甘寧の命を狙っていた。

呂蒙の家で酒盛りがあった時、凌統は出席している甘寧を斬ろうとした。

甘寧が相手をしようとした所、呂蒙が分けて入り止めた。
孫権はこれを聞くと、甘寧を転勤させた。

甘寧は、孫権に仕えた当初は幾度となく主命に違反し、孫権の怒りを買った。

そのたびに呂蒙が「将来必ず役に立つ者だから」と孫権をなだめていた。

甘寧は性格が獰猛で、自制心に欠けた。

ある時、甘寧の料理を作る子供が過失をした。
甘寧を恐れていたその子供は、呂蒙の所に逃げてきた。

呂蒙はかくまったが、甘寧が来たので「殺してはならぬ」と言ったところ、甘寧が聞き入れたので子供を返した。

ところが甘寧はその子供と自宅に戻ると、子供を木に縛りつけて弓で射殺した。

甘寧は呂蒙が殺しに来るのを覚悟し、裸になって1人で船中に寝た。
呂蒙は大変に怒り、兵を集めた。

すると呂蒙の母が現われて、呂蒙を諫めた。

「孫権様はお前を骨肉同様に処遇し、大事をお前に任せている。それなのにお前が私的な怒りで甘寧殿を殺すなら、臣下の道に外れる。」

呂蒙は早くに父を亡くし、母の手一つで極貧の中から育っていた。
だから母にただならぬ孝心を抱いており、話を聞くと怒りを解いた。

呂蒙は甘寧の船に出向き、笑って呼びかけた。
「わが老母が君と食事をしたいと待っている。急いで来い。」

これを開くと甘寧はさめざめと泣いて、呂蒙に謝った。
「あなたの心に背いてしまった」

甘寧は呂蒙と共にその母に会い、歓待を受けた。

(※殺された子供が可哀そうすぎる。
当時は、使用人の子供の命はそれほど軽かったのだろう。)

208年の赤壁の戦いでは、甘寧は周瑜に従って戦った。

この戦いでは曹操軍が大敗したが、曹仁と徐晃が江陵城にとどまって呉軍の追撃を防いだ。

江陵城の守りが固いので、甘寧は単独で近くの夷陵城を攻め落とした。

甘寧の率いる兵は数百人で、降参した城兵を入れても千人ほどだったが、その人数で夷陵城を守った。
そこに曹仁が5倍の兵で攻めてきた。

曹仁軍は高い楼を造って、そこから矢を射かけてきたので、城兵たちはおののいたが、甘寧は談笑し落ち着きはらっていた。
そして江陵城を包囲する周瑜に援軍を求めた。

周瑜と呂蒙らは夷陵城に来て、包囲していた曹仁軍を破った。

この後、呉軍は江陵城を落とし、周瑜が南郡太守となって支配下においた。

213年に曹操は、40万人の大軍を率いて孫権討伐にのり出し、濡須口(じゅしゅこう) に攻めてきた。

孫権は7万の兵で対峙したが、甘寧に夜襲を命じた。

この夜襲は100人の兵による決死の斬り込みで、『江表伝』によると甘寧たちは暗闇にまぎれて曹操の陣営まで迫り、そこに突入して数十人を斬り捨て、素早く逃げ帰った。

孫権は「これで曹操も驚き慌てただろう。お前の胆力も知ることができた。」と喜び、絹千疋と百本の刀を与えた。

曹操軍はその後、1ヵ月あまりで撤退した。

補足だが、江表とは江東と同じく、孫氏が支配した長江の下流地域を指す。

215年に孫権は、益州を攻め取った劉備に使者を送り、荊州南部の4郡を返すよう迫った。

孫権は劉備が支配している荊州4郡について、自分が貸し与えたものと解釈していた。

劉備が拒んだので、孫権は劉備軍の多くが益州にいる隙を突いて、呂蒙に3郡を奪わせた。

急を聞いて劉備が長江を下って荊州に駆けつけたのは、同年6月だった。

この時に関羽は、呂蒙を撃退すべく南進したが、魯粛が益陽に陣をしいて防ぎ、両軍がにらみ合った。

関羽は精鋭5千人を選んで、これを率いて密かに河を渡り益陽城に迫ろうとした。

これを察知した魯粛が軍議を開くと、魯粛軍にいた甘寧は300人の兵を率いるだけだったが、こう進言した。

「私に500人の兵を増員してくだされば、私が関羽の相手をしましょう。
関羽は私の咳とつばを吐く音を聞けば渡河しないでしょう。もし渡ってくれば捕まえます。」

魯粛は千の兵を与えたが、甘寧が対岸にいると知った関羽は渡河を中止した。

甘寧はこの功で西陵太守に昇進した。

同じ215年の8月に甘寧は、孫権に従って張遼の守る(曹魏の)合肥城を攻めた。

だが疫病が流行したので、呉軍は撤収することになった。

呉軍が退くのを見た張遼は、城を出て猛追してきた。
このとき孫権の周りには千余人と諸将がいるだけで、そこへ張遼軍が襲ってきた。

甘寧は凌統と共に防戦につとめ、戦いながら甘寧は「太鼓を打ち鳴らせ、笛を吹け」と崩れかけた自軍をはげしく叱咤した。
その様を『三国志』は「壮気毅然たり」と書いている。

(2025年4月30日、5月4日に作成)


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