三国志
呉の人物

(『眞説三國志』坂口和澄著から抜粋
2003年9月後半にノートにとり勉強)

🔵孫堅 156~191年

揚州・呉郡富春県の出身で、17歳の時に海賊を退けて名を知られる。やがて下邳(かひ)の丞に任命される。

184年 黄巾党の乱が起きると、朱儁(しゅしゅん)に従って討伐に活躍する。

186年 邊章(へんしょう)、韓遂が反乱を起こし、董卓が鎮圧に向うが失敗する。
張温が改めて討伐に向うが、その時に張温に見込まれていた孫堅も従う。

張温の下で敗将の董卓は不遜な態度をしたため、孫堅は斬るべきだと進言するが、容れられず。

187年 長沙の區星(おうせい)が反乱したので鎮定する。鳥程候になる。

190年 董卓討伐の戦争に参加して兵を挙げる。
その邪魔をした荊州刺史・王叡と南陽太守・張咨(ちょうし)を斬り、袁術に会う。

袁術は上表し、孫堅は豫州刺史に任命された。

董卓は孫堅を仲間にしようとするが、孫堅は断わる。

董卓は形勢不利と見て洛陽を焼き払い、関中に退く。
孫堅はいち早く洛陽に入り、暴かれた皇帝たちの陵墓を修復した。

191年 袁術に命じられて荊州の劉表を攻める。
劉表の将軍・黄祖の兵に弓で打たれて戦死する。

孫堅は、玉璽を手に入れたとの説もあるが、彼の性格からして隠し持つのは考えにくいとの説が有力だ。

出身地の呉郡は、陸、顧、朱、張の4氏が名族として力を持っていた。

🔵孫策 175~200年

孫堅の長男で、190年に孫堅が挙兵すると母と共に舒に移り住み、周瑜と知り合い親友になった。

192年 前年に父・孫堅が死んだので、長江の対岸の江都に移住する。
叔父の呉景が丹楊太守で、そこに身を寄せる。

193年 楊州刺史・劉繇(りゅうよう)が呉景らを追い出し、袁術に対抗する。

袁術が劉繇に手こずっているのを見て、孫策は「呉景らと劉繇を倒すので兵を貸してくれ」と願い出て、千人の兵を借りる。

孫策の武名はすでに高く、5千人ほどに兵が膨れ上がり、劉繇を破る。

194年 袁術に頼み、父・孫堅の旧部下を返してもらう。

196年 会稽(かいけい)に出陣し、太守の王朗を斬り、厳白虎らの群盗を破る。

江東一帯を平定し、自らは会稽太守に。
呉景を丹楊太守に、孫賁(そんふん、従兄)を豫章太守に、孫賁の弟の孫輔(そんほ)を廬陵(ろりょう)太守に、朱治を呉郡太守にする。

また、張昭、張紘、秦松(しんしょう)らを配下にする。

197年 袁術が皇帝を名乗ったので、非難し、関係を断つ。

198年 前年に続いて献帝に献物をし、呉侯に任命される。
橋公の姉娘と結婚する。

曹操は孫策の実力を重視して、弟の娘を孫策の末弟・孫匡(そんきょう)に縁づけ、息子・曹彰に孫賁の娘をめとる。

200年 曹操が官渡で袁紹と対峙している隙に、曹操の本拠地・許を襲撃しようする。
その矢先に許貢の食客の手にかかり重傷を負い、その傷で死亡する。

🔵程普 ?~216年頃

北の辺境の出身である。
黄巾討伐の時に孫堅の配下になる。常に孫堅、孫策と共にいて活躍した。

196年 零陵太守になる。

199年 尋陽の劉勲を討ち、西の黄祖に大勝する。

206年 楽安を平定。病死した太史慈の後を継ぎ、劉表の従子(いとこ)・劉磐(りゅうばん)がいつも国境を騒がす海昏(かいこん)を守る。

208年 赤壁の戦いの時は、周瑜と共に左右の督となって当たる。
しかし2人は年令差もあり、うまくゆかず。

210年 周瑜が死去すると、それに代わって南郡太守になる。
216年頃に病死。

🔵韓当 ?~226年

幽州・遼西郡という北の辺境の出である。

程普と同じく、黄巾討伐の時に孫堅の配下になる。

197年の劉勲討伐、199年の黄祖討伐などで大功をあげる。

208年 赤壁の戦いの後に、呂蒙と共に南郡を奪取する。

222年 夷陵の戦いで、陸遜、朱然と共に劉備軍に大勝する。
226年に病死。

韓当が死ぬと、息子の韓綜(かんそう)は、韓当の亡きがらを持って魏に逃亡した。
これは日頃の行いが悪く、父の存在で何とか許される状態だったためである。

韓綜は魏の武将になり、しばしば呉の国境を侵した。
253年に諸葛恪は、魏の先鋒として攻めてきた韓綜を討ち取った。

🔵周瑜 175~210年

揚州・廬江郡舒県の出身で、名門の出である。

190年 孫策と知り合う。
191年 孫策に従い諸城を攻略。

孫堅の死後は、袁術の許へ身を寄せていたが、198年に脱出して孫策に合流。

198年 皖城(かんじょう)を陥し、橋公の二人娘を捕える。妹の小橋を妻にする。

孫策の時代に、曹操が蒋幹を使者にして周瑜を引き抜こうとした事があったが、周瑜はきっぱりと断わる。

200年 孫策が死去し、孫権が後を継ぐと、張昭と共に孫権の片腕となる。

202年 曹操が人質を差し出せと孫権に要求してくるが、断わるよう進言して容れられる。

208年 曹操が攻めてきた際、ほとんどの者が降伏する事を進言した。
だが魯粛と共に抗戦を主張し、孫権に採用される。

赤壁の戦いでは、黄蓋の策を採用し、大勝する。

210年 劉備が荊州の借用を申し出た際は大反対するが、孫権は魯粛の意見を採り許可する。

同年 益州への進攻を進言し、採用される。
出兵の準備を していた矢先に急病で死去する。

🔵魯粛(ろしゅく) 172~217年

徐州・臨淮郡の出身。富裕な家に生まれる。
無欲で、困った人々に財産を与えていた。

198年 周瑜が訪れて援助を求めた際は、2つある倉のうち1つをそっくり与えた。
そして周瑜と親交を結ぶ。

魯粛は袁術に召し出されたが、見限って周瑜に身を寄せ、周瑜が孫策に合流する時に同行した。

200年 周瑜は孫権に魯粛を推挙する。
魯粛は「益州を手に入れて曹操と対抗する」という、天下二分策を進言する。

208年 劉表が死ぬと、弔問の使者になり、劉備と接触する。

劉備が「旧知の蒼悟太守・呉巨を頼るつもりだ」と言うと、 魯粛は「協力して曹操に当たろう」と説得した。
(※蒼悟郡は中国南端で、ベトナムに接している所)

また呉の宮廷では降伏論が大勢だったが、周瑜と共に抗戦を主張して孫権を説得する。

210年 周瑜が病死する前に、後事を託される。
後を継ぐと、周瑜とは異なり劉備に寛大な対応をする。

214年 劉備が益州を平定すると、孫権は荊州の長沙、零陵、桂陽の3郡の返還を要求し、魯粛が交渉を担当する。

魯粛は荊州を守る関羽と交渉して、湘水を境とする事を決定。

217年に病死した。

🔵呂蒙 178~219年

豫州・汝南郡の出身。
若い頃は不良だった。
自分を侮辱した男を殺して自首したところ、孫策は見込みがあると判断し、側近に加えた。

208年 黄祖との戦争では、水軍の将・陳就を自ら斬り、黄祖を捕まえるきっかけを作る。
赤壁の戦いでも活躍。

孫権の時代になると、書物を読み始めて知識人となる。

217年 魯粛が死去すると、代わって陸口に駐屯し、蜀漢の関羽と国境をへだてて接することに。

219年 関羽が魏に進攻すると、呂蒙は病気のため建業に召還されるよう孫権に請い、陸遜を後任に据える。
これに安心した関羽は、江陵、公安の守備兵を樊城攻撃に回し、湘関にある呉の糧秣を無断で奪った。

魏から密書が届いた事もあり、孫権は関羽を攻撃すると決断。

呂蒙は、江陵の糜芳、公安の傅士仁を降伏させ、12月に関羽を斬る。
その直後に病死した。

🔵黄蓋 ?~?年

荊州・零陵郡の出身。

208年 赤壁の戦いにおいて、周瑜に船の焼き打ちを進言する。

自ら偽降の手紙を曹操に出し、東南の風が降いた日に偽降の船を出して、曹操の船団と陣営を焼き打ちにする。

赤壁の戦いの後は、異民族の平定に従事した。
孫権が帝位につく以前に病死。

韓当と親友だった。

🔵周泰 ?~222から228年の間

揚州・九江郡の出身。貧しい家の出である。

194年頃 孫策の配下になる。
孫権に気に入られ、孫権付きになる。

孫策が六県の山越討伐に行った際、孫権は宣城を守っていたが、山越の急襲を受けた。
周泰が身体に12の傷を受ける奮闘をし、何とか退けた。

203年の黄祖との戦い、208年の赤壁の戦いにも参加。

217年に曹操が濡須(じゅしゅ)に攻めてきた時は迎え撃ち、曹操が退却後は濡須の督になり守備をする。

濡須の督時代は、朱然、徐盛らは周泰の統率下だった。

🔵蔣欽 ?~219年

揚州・九江郡の出身。

194年頃 孫策の配下になる。
孫策に従って3つの郡を平定し、会稽の賊である呂合、秦狼を捕える。

215年 孫権は合肥に進攻し、撤退時に大敗するが、蔣欽の力戦で事なきを得た。

217年 曹操が濡須に来攻するが、呂蒙と共に総指揮者となり防ぐ。

219年 関羽との戦争に参加。その帰路で病死した。

🔵張昭 156~236年

徐州・彭城国の出身。

天下が乱れると江南に避難し、196年に孫策の配下に。
信頼されて、文事・武事の一切を委ねられる。

208年 曹操が攻めてきた際は、降伏を唱えたが容れられず。

孫権の諌め役として存在した。236年に病死。

🔵太史慈 166~206年

青州・東萊(とうらい)郡の出身。
弓術にすぐれ、身長182cmと長身。

学問を好み、東萊郡の官吏になる。北海国の孔融に見込まれる。

192年 孔融が黄巾残党の管亥に包囲された際は、平原国の相・劉備に救援を求める使者となる。
劉備は快諾して、孔融は救われる。

194年 楊州刺史・劉繇の配下になるが重用されず。

ある日、部下の1人と共に出かけると、孫策が配下13人といるのに出会い、孫策と戦闘になるが兵が駆けつけて引き分ける。

劉繇の死後、孫策に降伏。
配下だった兵や民衆を安撫する任務を命じられ、帰ってこないのではと心配する者もいたが、仕事をこなして帰ってきた。

曹操は手紙を送り配下にしようとしたが、太史慈は断った。

🔵孫権 182~252年

孫堅の次男で、孫策の弟。

200年 孫策が殺され、19歳で後を継ぐ。

208年 赤壁の戦いで曹操軍に大勝。

219年 関羽が魏に進攻すると、魏へ手紙を送り関羽の背後をつく事を申し出て、関羽を撃破して殺す。
当時、蜀とは同盟中だったが、無視して魏についた。

221年 関羽を殺され荊州を奪われた事に怒る劉備が攻めてくる。
孫権は魏に臣従を申し出て、 捕虜にしていた于禁を送り返す。
曹丕は孫権を呉王に封じる。

222年 呉軍は劉備軍に大勝する。
魏は、呉に対して臣従の証として孫権の子・孫登を人質として差し出すように要求していた。
呉がこれを断ったため、魏軍が攻めてくる。

そのため呉は蜀に和議を申し入れ、成立する。

229年4月 帝位に即き、9月に武昌から建業に都を遷す。
この頃から老いを見せ、政策に誤りが増える。

長男、次男が若死にし、三男・孫和を皇太子にする。
ところが四男・孫覇を孫権が溺愛した事で揉めてしまう。

結局、孫覇に死を命じて、末子の孫亮を皇太子にする。

252年に病死。

🔵甘寧 ?~?年

益州・巴郡臨江県の出身。

若い頃は無頼の頭領で、やりたい放題していた。部下の腰に鈴を付けさせていた。 ヤクザの親分として20年余りも君臨していた。

後に学問を志し、劉表の配下になる。

劉表を見限り、呉に行こうとするが失敗。やむなく黄祖の所に留まり配下に。

203年 呉と黄祖の戦争時に、呉の武将・凌操(りょうそう)を射殺して、大功を立てる。
ところが功が認められず、不満の甘寧は蘇飛のはからいで呉に寝返る。

孫権に認められて、黄祖討伐の総指揮官に抜擢される。
見事に勝利し、黄祖を捕える。

208年の赤壁の戦いの後、夷陵を攻め落とす。その後に曹仁を退ける。

215年 関羽は荊州問題のこじれから呉を攻めようとするが、甘寧が迎え打つと聞くと兵を引く。

217年 曹操が濡須に来攻した際は、夜襲して大功を立てる。

🔵陸遜(りくそん) 183~245年

揚州・呉郡呉県の出身。名族の出である。

203年 孫権に仕え始め、山越討伐をする。
すでに陸氏の取りまとめ役で、亡き孫策の娘をもらい結婚する。

219年 関羽に対してヘり下った手紙を出し、関羽を油断させて、大勝のきっかけを作る。

222年6月 攻めてきた蜀軍に大勝する。蜀軍の死者は数万にのぼった。
この後、蜀との外交や国境の守備を一任される。
夷陵に駐屯し、荊州を統治する。

236年 呉軍が合肥へ進攻した際も、退却を見事にこなす。

244年 丞相に任命される。
何度も後継ぎ問題で孫権を諫めたが、親類を流罪にされ、孫権から責められたため245年に憤死する。

🔵顧雍(こよう) ?~243年

225年~243年 最高位である丞相として呉をまとめる。

🔵諸葛瑾 174~241年

徐州・琅邪郡の出身。諸葛亮の兄。
温厚で謹直な人だった。

孫権の代になって間もなく、呉に仕え出す。

魯粛に代わり南郡太守に。非常に孫権に信頼されていた。

🔵朱然 182~249年

揚州・丹陽郡の出身。
朱治の姉の子で、朱治の養子に入る。
孫権と一緒に勉学し、愛されるように。

212年 曹操が濡須に攻めてきた際に防戦する。

219年 関羽との戦争で、潘璋と共に関羽を捕らえる活躍。

222年 夷陵の戦いで劉備軍の先鋒を破り、退路を遮断して大勝にみちびく。

222年 曹真、張郃らが朱然のこもる江陵に攻めてきたが、6ヶ月の攻防をしのぎ撃退する。

249年 病死。

🔵凌統 189~237年

203年 父・凌操が戦死し、後を継ぐ。

208年 黄祖との戦争で、董襲と共に活躍し、黄祖を捕らえる。

215年 曹操が漢中平定のため出征している際、孫権は合肥を攻めたが、うまくゆかず撤退戦も失敗する。
この時、孫権の危うい所を凌統が救う。

237年 病死。(※217年病死説もある)

🔵丁奉 ?~271年

揚州・廬江郡の出身。
甘寧、陸遜、潘璋の下で働き、武功を上げる。

252年 孫亮が帝位についた。呉の政権交代を突いて魏が三道から攻めてきたが、丁奉が中心となり撃退する。

255年 魏に反乱した文欽が投降するのを助け、魏軍を撃退する。

258年 孫亮は、大将軍・孫綝(そんちん)の殺害をくわだて失敗する。
同年9月 孫綝は孫亮を廃して、孫休を帝位に就け、自らは丞相となる。
同年12月 孫休は張布と丁奉に孫綝を殺害させる。丁奉はこの功で大将軍に出世。

263年 魏が蜀に攻めこんだため、蜀を援護するため寿春に出兵する。
蜀が滅ぶと撤兵する。

264年 孫休が死去。丞相の濮陽興(ぼくようこう)らと計り、孫晧を帝位に即ける。

271年 病死。

🔵潘璋(はんしょう) ?~234年

兗州・東郡の出身。
孫策の時代に孫権配下となる。県や建昌の統治で実績を上げる。

215年 合肥からの撤退戦で活躍。

219年 関羽との戦争で、朱然と共に関羽を捕らえる。

222年 夷陵の戦いでも活躍し、馮習らを斬る。

潘璋は素行が悪かったが、戦場で常に活躍したので見逃されていた。

🔵徐盛 ?~224から228年の間

徐州・琅邪郡の出身。

故郷から呉に移住し、200年頃に孫権に仕える。

224年 曹丕自らが呉に攻めてきたが、長江沿いに偽の城壁を造り、曹丕をだまして退却させる。

🔵諸葛恪 203~253年

諸葛瑾の息子(長男)である。180cmの長身。
若い頃から才能があると名高かった。

245年 死去した陸遜に代わって大将軍となる。

251年 皇太子の後見を任される。
翌年に孫権が死去すると、皇太子の孫亮が後を継ぐ。

252年10月 攻めてきた魏軍を撃退。

253年の春 反対を押しきり合肥を攻めるが、大敗する。
専横が甚だしくなり、孫峻らに斬殺される。

🔵陸凱(りくがい) 198~269年

陸遜の一族。

たびたび戦功を重ね、257年に豫州の牧になる。

264年 新政権(孫晧が皇帝)になると、荊州の牧を兼任。

266年12月 丁奉、丁固らと謀り、孫晧を殺して孫休の子を皇帝につける計画を立てるが、実行されず。

🔵陸抗 226~274年

陸遜の息子(次男)である。

呉の西部を守る司令官として長く活躍した。

272年 歩闡(ほせん)の反乱を鎮定。

晋の将軍・羊祜(ようこ)とは国境を挟んで対峙していたが、不思議に仲が良かった。
274年に病死。

🔵孫晧(そんこう) 242~284年

呉の4代目の皇帝である。

264年に即位するが、酒色におぼれ、帝位に就けてくれた濮陽興と張布を殺害する。

265年 先帝の未亡人・景皇后とその子供を殺害する。

265年 建業から武昌に遷都する。翌年には建業に戻るという愚行に。

昭明宮という広大な宮殿を造営する。
迷信に凝り、占いにはまる。

274年 陸抗が死去。
晋の羊祜は「呉を攻めるべき時」と上申するが、司馬炎は却下した。

279年 晋は水陸両路から呉に侵攻する。

280年 呉は降伏して滅亡。

(2024年12月27~30日に作成)


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