タイトル五斗米道の教国、張魯

(以下は『人間三国志4』林田慎之助著から抜粋)

黄巾の乱が起きた184年の10年ほど前、中国で新興宗教が生まれた。
東部では張角の「太平道」が興り、西部の漢中では「五斗米道」が興ったのである。

漢中は、東北に行くと長安の都があり、西南は巴蜀と呼ばれた益州に接している。

この地で五斗米道の教国が、張魯という指導者の下で20年以上も独立国として存在した。

フランス人のアンリ・マスペロは著書『道教』で、こう書いている。

「張魯の国は215年に曹操に征服され、張魯は後漢朝の首都に連行された。

だが張魯は曹操に厚遇され、鎮南将軍に任命されたし、一万戸の封邑のついた侯爵となった。

張魯の子供5人にも侯爵位が与えられたし、張魯の娘の1人は曹操の息子と結婚した。

歴史家の魚豢(ぎょかん)は270年頃に、漢朝末期の歴史書『典略』を著した。
その少し後には魏朝の歴史書『魏略』を著した。

『典略』の中では、張魯の組織と教説が要約されている。」

『三国志』の張魯伝によると、張魯の祖父・張陵は、益州の山中で修行するうちに道術の本を書いたが、信者が集まるようになった。

信者たちは、張陵に対して五斗の米をお礼として差し出したので、世間は「米賊」と呼んだ。

張陵が亡くなくると息子の張衡が継ぎ、張衡が亡くなると息子の張魯が継いだ。

五斗米道の信者は増えていき、(後漢朝の弱体化もあって)いつしか独立した宗教国家を形成した。

188年5月に、益州の綿竹県で、黄巾軍を率いて馬相と趙祗が蜂起した。

益州は「天府の国」と呼ばれるほど物産に恵まれた土地だが、農民たちは重い税と賦役に疲れ切っていた。
だから馬相らの反乱に加わる者は1万人を超えた。

馬相らはまず綿竹県令の李升を殺し、さらに益州刺史の郤倹(げきけん)を殺した。
郤倹は重い税をとるので、人々から恨みを買っていた。

黄巾軍はさらに3つの郡を荒らし回り、馬相の軍は数万人に達して、馬相は皇帝を名乗った。

だが益州の従事(※役職名)の賈竜(かりゅう)は、千人余の兵を集めて馬相軍を破り、黄巾軍を追い払った。

後任の益州刺史に任命されたのは、劉焉(りゅうえん)だった。

劉焉は荊州・江夏郡の出身で、それまでに冀州刺史、南陽太守、宗正、太常といった重職を歴任していた。

彼は霊帝(皇帝の劉宏)の行う政治があまりにひどいので、後漢朝は滅びると見て、辺境の地に赴任して混乱から避難したいと考えた。

ちょうど侍中の董扶(とうふ)が、「益州には天子の気がある」と言ったので、益州に赴任することを選んだのである。

益州に入った劉焉は、善政を行い、後漢朝から独立することを目指した。

『三国志』の劉焉伝には、「張魯の母は巫術を使う上に年齢に合わぬ美しさを保ち、いつも劉焉の家と行き来していた。そのため劉焉は張魯を督義司馬に任命した。」とある。

劉焉は食わせ者だった。
張魯を督義司馬に任命したあと、張魯に長安につながる橋を壊させて、朝廷が派遣した使者も殺させた。
そうしておいて朝廷に「米賊が道路を遮断したので連絡できません」と報告したのだ。

他にも劉焉は、張魯を督義司馬に任命した際、五斗米道の指導者の1人である張修を別部司馬に任命している。

これは2人の司馬をつくって争わせ、五斗米道を分断して、五斗米道が勢力を伸ばす漢中を操ろうとしたのだろう。

劉焉は、自分の乗物を皇帝と同じ作りにするなど、皇帝になる野望を見せたが、194年に病死した。

息子の劉璋が後を継いだ。

張魯は劉焉が死ぬ少し前に、張修と共に漢中太守の蘇固を倒し、その後に張修も殺した。

こうして漢中を支配下におき、独立国をつくり始めた。

劉璋は張魯の行動に怒り、成都にいた張魯の母とその弟を殺した。

劉璋は腹心の龐義に漢中を攻めさせたが、五斗米道軍に敗れた。

五斗米道の組織は、改宗したばかりの「鬼卒」が一番下に置かれ、その上に一般信徒たちの「鬼民」がいた。

その上には「姦令」(かんれい)がいて、病人を治す祈禱をした。

ちなみに五斗米道は、病気は罪ある者の報いと考えていて、病人は邪(よこしま)な人間と見ていた。

姦令の上には「祭酒」がいて、平時は教団の教師をし、戦争時には軍を指揮した。

張魯は祭酒の上にいて、「天師君」と呼ばれた。

張魯は漢中の各地に「義舎」(ぎしゃ)をつくらせて、そこに米や肉をたくわえて、必要な分はぶら下げておいた。

旅人や浮浪者は義舎で休息し、満腹になるまで取って食べることが出来た。

必要以上に取った者は、妖術でたちまち病気になるとされた。

五斗米道では、犯罪は2回までは許され、3回目から刑罰が用いられた。

軽犯罪は道路を百歩分、整備すれば許されたので、漢中全域の道が整備されたという。

また春と夏は狩猟などの殺生を禁じ、飲酒も禁じた。

上記の政治制度は評判を呼び、中国各地から移住する者が増えた。
彼らは五斗米道に入信し、その兵士ともなった。

朝廷はこれを討伐する力がなく、使者を送って張魯を漢寧太守に任じ、貢ぎ物を献上する義務だけを課した。

張魯は漢寧王を名乗ろうとしたが、参謀の閻圃(えんほ)の諫めで断念した。

215年に曹操が攻めてきた時、張魯は降伏しようとしたが、弟の張衛が数万人の兵を率いて陽平関を守り抵抗した。

曹操軍は陽平関を落とせず、曹操は撤退を決定した。

ところが曹操軍で最後に撤退を始めた部隊は、夜中なので道を誤り張衛軍の陣に入ってしまった。

驚いた張衛軍が逃げ出したので、曹操軍は攻撃に移り陽平関を落とした。

張魯はいよいよ降伏しようと考えたが、閻圃が「いま降伏するよりも抵抗してから臣礼をとるほうが厚遇されます」と言ったので、本拠地の南鄭から巴中地方に逃げた。

南鄭を出るさい、張魯の側近たちは「蔵にある財宝を焼き払うべきです」と言ったが、張島は「財宝はすべて国家のものだ」と言って蔵をそのままに置いた。

曹操は南鄭に入城すると、財宝がそのまま残っているのに感心し、張魯に善良な心と帰順の意志があると知った。

曹操は「帰順せよ」との使者を送り、喜んだ張魯は家族を連れて出頭した。

曹操は、張魯を鎮南将軍に任命し、閬中(ろうちゅう)侯にして一万戸を与えた。

また張魯を諫めて王を名乗らせなかった閻圃も、それを評価されて列侯に取り立てられた。

この事について歴史家の習鑿歯(しゅうさくし)は、次のように絶賛している。

「戦争で活躍した者だけに爵位や恩賞を与えるならば、俗人は乱世をチャンスと考えて殺りくを重ねる。

曹操が閻圃も侯爵にしたことは、昔の聖王も出来ないすばらしいものだ。」

曹操は、息子の曹彭祖と張魯の娘を結婚させた。

張魯が亡くなると、その子の張富が跡を継いだ。

五斗米道の教国は、民衆のユートピアの実現だった。

215年に曹操が征西し、これに対して関中地方で馬超らが蜂起した時、関中の住民が数万人も戦争から逃れて張魯の国に逃げ込んだと言われている。

それほど民衆にとって魅力のある国だった。

(2025年5月17日に作成)


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