(以下は『人間三国志4』林田慎之助著から抜粋)
曹操が後漢朝の献帝を自分の都(許都)に迎え入れたのは、196年である。
この頃すでに王朝簒奪の野心があると見抜いたのが、孔融だった。
孔融は、孔子の20代目の子孫で、名士の中の名士であり、清流派の知識人であった。
彼は幼い頃から聡明で、文学に優れた才を見せた。
あらゆる書物を読みあさり、博識をうたわれた。
第二次の「党錮の大獄(党錮の禁)」が起きた時、張倹ら清流派の知識人は指名手配犯となった。
張倹は逃亡し、その途中で孔融の兄・孔褒と親友があったので、孔家に逃げ込んだ。
この時、孔褒は留守で、17歳の孔融が対応したが、孔融は張倹を家にかくまった。
孔家に役人が押しかけ、張倹はうまく脱したが、孔褒と孔融は牢獄に入れられた。
兄弟は互いにかばい合ったが、結局は兄の孔褒が罪人となった。
孔融はこの一件で、さらなる名声を得た。
司徒の楊賜が孔融を辟召する(召し抱える)と、孔融は賄賂をとる官僚を厳しく摘発して辣腕を発揮した。
黄巾の乱が起き、何進が大将軍に任命されると、楊賜は孔融を使者にして祝いの言葉を伝えることにした。
ところが孔融が訪れても何進はなかなか会ってくれず、怒った孔融は帰ってきて辞表を提出した。
何進はこれを知ると恥をかかされたと思い、孔融を殺そうとした。
しかし客人の1人が「孔融は名士であり、殺せば名士たちがあなたに背を向けます。ここは孔融を手厚く処遇し、度量を見せるべきです。」と忠告した。
何進はこれに従い、孔融を侍御史に任命した。
やがて朝廷で董卓が権力を握ったが、孔融は董卓をしばしば諫めた。
このため董卓によって左遷され、北海国の相(長官)になった。
北海国に赴任した孔融は、黄巾軍に破壊された町村の復興に努め、義勇兵を募って軍事訓練した。
孔融は有能な人物の推挙も積極的に行い、彭璆(ほうきゅう)、邴原(へいげん)、王脩(おうしゅう)、鄭玄(じょうげん)を朝廷に推挙した。
ちなみに鄭玄は、大学者だが、党錮の禁に連座して14年も禁錮された人である。
北海国に黄巾軍が攻めてきた時、孔融は近くの平原国の相をする劉備に救援を求めたことがある。
劉備は「なんと孔融殿までが、私のことをご承知下されたか」と大喜びし、3千の兵を送って黄巾軍を撃退した。
天下の名士である孔融に知られたことが、劉備は嬉しかったのだ。
孔融は6年間、北海国の相をつとめ、劉備の推挙があって青州刺史に昇進した。
しかし196年に袁譚(袁紹の子)に攻められて、籠城したが敗北し逃亡することになった。
この時は、春から夏まで続いた籠城戦の中、孔融はいつも通りに書を読み談笑したといい、彼の胆っ玉の据わりぶりが分かる。
青州から逃げた後、196年中に献帝のいる許昌に呼ばれて、献帝の宮殿を造る将作大匠に任命された。
許昌の政治の実権は曹操が握っていたが、孔融は曹操に仕える気はなく、献帝の直臣として行動した。
孔融は199~201年にかけて、『汝潁優劣論』を著した。
これは汝南郡と潁川郡の名士のどちらが優れているかを論じたもので、汝南が上とした。
曹操の幕下にいる陳羣や荀彧らは潁川郡の出身だが、孔融は彼らが曹操に加担することで漢王朝を弱めていると苦々しく思っていた。
漢王朝で太尉(軍務大臣)をつとめる楊彪は、曹操と仲が悪かった。
楊彪は袁術と姻戚関係があったので、袁術が皇帝を乗ったとき、曹操はこの機会に楊彪を捕まえて殺そうとした。
孔融はこれに猛抗議して、次のように曹操に言った。
「人々が曹操殿を慕っているのは、漢の皇帝を補佐して世を太平に導くと期待しているからです。
しかるに欲しいままに無実の者を殺すのならば、人々は背を向けるでしょう。
もし曹操殿がお聞き入れにならないならば、私はここを立ち去り2度と参内しません。」
こうまで言われては、曹操も聞き入れるしかなかった。
曹操が袁紹と対立した際、孔融は荀彧にこう言った。
「袁紹は大きな領土と兵士を持ち、田豊、許攸、審配、 逢紀、顔良、文醜という有能な者も抱えている。曹操殿が勝つのは難しいだろう。」
荀彧は、袁紹軍の法律が整っていないことや、孔融が挙げた家臣たちに問題があることを指摘して反論した。
結果から見ると、曹操は袁紹とその後継者を倒したし、孔融の評価は浅くて、曹操の実力を正確に評価できてなかったと言える。
曹操軍が、袁氏の本拠地になっていた鄴を攻め落とした時、袁氏の女たちは兵士のなぶり物となった。
曹操の息子・曹丕も、袁煕の妻で美人の甄氏(しんし)を奪い、妾にした。
曹丕の行いに対し孔融は、曹操に手紙を出して、「周の武王は紂王を討ったとき、紂王の妻・妲己(だっき)を自分の弟の周公に与えました」と書いた。
これは史実にもとり、孔融は曹操と曹丕に当てこすりしたのだが、曹操は気付かなかった。
後で曹操が「あの話はどの経典に出ているか」と訊くと、孔融は「たぶんそんな事だろうと思っただけです」と答えた。
孔融は、20歳年下の学者で詩人の禰衡(でいこう)を愛し、朝廷に推薦した。
禰衡は、曹操や荀彧ら時の権力者を「優れた人物ではない」と一蹴するなど、傲慢不遜の性格だった。
このため曹操の怒りを買い、荊州の劉表の所に追放された。
劉表は始めは禰衡を礼遇したが、禰衡が劉表の欠点をあげつらうので、部下の黄祖の所に送りつけた。
黄祖は禰衡の文才に感動したが、ある時に禰衡が不遜な言葉を吐いたので殺してしまった。
黄祖の息子・黄射は、止めようと駆け付けたのだが、すでに禰衡は殺されていた。
禰衡は若くして殺されたが、彼の文章『鸚鵡(おうむ)の賦』は高い評価をうけて、今日まで伝わっている。
この時代の詩の代表作とされている。
曹操は、孔融の名声と影響力が広まっていくのを恐れ、御史大夫の郗慮(ちりょ)をけしかけて孔融を弾劾させ、免職に追いこんだ。
だが孔融が隠居状態になってからも、訪問客は毎日門にあふれる状態だった。
孔融は、人の善行を耳にすると我が事のように喜び、人の意見で採るべきものがあれば必ず取り入れたので、名士たちが心服したのである。
曹操は孔融を恐れて、部下の路粋に弾劾させて死刑にした。
孔融は妻子ともども処刑された。56歳だった。
『後漢書』の孔融伝は、こう書いている。
「孔融の高潔な志と一本気のふるまいは、梟雄・曹操の野心を阻んだ。
曹操は生きている間に漢王朝の簒奪ができなかった。
孔融のようなまっすぐな人は、当たって砕けるのが本望。
彼こそ、純粋なことは白玉の如く、峻烈なことは秋霜の如き人である。」
曹丕が皇帝になると、彼は孔融の文章をこよなく好み、「楊雄や班固にも劣らぬものだ」と評した。
曹丕は孔融の遺文を集めさせ、詩文25篇を収集した。
孔融は、この時代の文学者「建安の七子」の筆頭に挙げられている。
孔融は清流派の知識人の最後の人で、曹操の権勢を恐れることなく、漢朝の再興に尽くし、曹操の王朝簒奪の野心の前に立ちはだかった。
(2025年5月18&30日に作成)