三国時代の雑学

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

🔵仏教、月氏族

浮屠(ふと)とは、ブッダの中国音訳であった。

後漢の時代、首都・洛陽に住む大月氏国(だいげつしこく)の人達は、すでに仏教を奉じていた。

だが漢民族にはまだ広まっていない。仏教という用語さえ無かった。

洛陽にある白馬寺は、この都にある唯一の仏教寺院だった。

月氏族は、もともとは現在の甘粛省・西部に住んでいたが、匈奴に追われてアフガニスタンに移住した人々だ。

移住先はインドに近く、彼らの多くは仏教徒になった。

白馬寺は、後漢の2代目・明帝が建立したという。
建立は67年と伝えられている。

それから100年以上を経た黄巾の乱の頃も、漢人の信者は少なく、信者のほとんどが月氏国から来た月氏族だった。

なお白馬寺の遺跡は、現在も残っている。

漢人に仏教が流布したのは、後漢末の三国時代の動乱によってである。
乱世の中で人々は信仰にすがろうとしたのだろう。

仏教徒の月氏たちは、托鉢をしたかったが中国では時期尚早として、代わりに薬を人々に与えることを考えついた。

経文を唱えながら歩き、葉を無料で施すのだ。

この施薬行は、洛陽付近では名物になった。

月氏の僧侶である支婁迦讖(しるかせん)が、洛陽において大乗仏教の教典の漢訳を179年頃から始めた。

『道行般若経』など14部の経典の漢訳が完成したのは189年だった。
これにより布教がやりやすくなった。

🔵サマルカンド、ソグド地方、康国

ウズベク共和国(ウズベキスタン)のサマルカンドは、当時は「康国」と言った。

月氏の人が中国名を名乗る時に支姓を用いたように、康国の人は康姓を用いた。

サマルカンドの辺りは「ソグド地方」と呼ばれ、住民は古代から歌舞と商業の才能を持っていた。

この辺りは11世紀ごろにイスラム教圏になるが、後漢・三国時代は仏教国であった。

当時の中国は、シルクロードを使って絹を西方に運んだ。

反対に西方からもたらされたのは、ガラス製品であった。

中国ではガラスを「琉璃」(るり)と呼び、珍重した。

🔵人物評論家

許劭(きょしょう)は、字を子将といい、人物評論家として有名だった。

彼は毎月1日に人物評を行い、人々が注目して大きな権威をもった。
世人はそれを月旦(げったん・月の1日)評と持て囃した。

品定めのことを「月旦」と言うのは、これに由来する。

🔵胡人とその文化の導入

古代の漢民族の生活は、むしろの上に正座するのが普通だった。

日本の着物は中国から伝わったもので、漢民族の古来の服装と大差ない。

漢朝の時代の服は、日本の着物と同じ作りだが、えりの部分だけ黒っぽくするのが多かった。
帯は5cmくらいの幅で、結んだ余りは前か後ろに長く垂らすのが普通で、横に垂らすこともあった。

椅子に坐ることは西域から伝わり、このため背に寄りかかりのある椅子を「胡床」(こしょう)と言う。

胡は、限定して用いる時は、イラン系の西域人を指す。

あぐらも西域から来た座り方で、「胡坐」という文字を当てた。

後漢の頃の中国は、椅子と正座が生活において相半ばだったろう。
漢民族が完全に椅子生活になったのは、10世紀をすぎた宋の時代という。

後漢の霊帝は、西域のものを好み、胡が付くものを好んだ。

胡服、胡床、胡琴、胡椒(こしょう)、胡桃(くるみ)などである。

霊帝は洛陽に住む月氏族のような胡人も優遇した。

🔵『孫子』の註釈

現在に伝わる『孫子』は、曹操が註したものである。

この事について、曹操は孫子を改竄した、もしくは偽作したと、長く疑われていた。

近年になって、前漢時代初期の墓から孫子の竹簡が出土し、曹操註のものとほぼ同じと分かった。
曹操はようやく罪無しと証明されたのである。

🔵🔵漢朝の印章、玉璽

漢朝の印章には、厳しい規則があった。

丞相以上は黄金の印章で、二千石以上の官職は銀印である。
それ以下は銅印だが、位階によって紐が、すなわち綬の色が違った。

ただ1人、皇帝だけが白玉の印章を用いたが、これを「玉璽」と言う。

秦の始皇帝が「璽」の字を自らの印章に使い、これは皇帝に限って用いると定めた。

漢朝において玉璽(伝国璽)は、実際に使われる印章ではなく、日本の三種の神器に相当する、天子の正当性の印であった。

伝説によれば、長安に近い藍田山で採れた玉で作られ、「受命于天 既寿永昌」と彫られている。
彫られた八字は、始皇帝の宰相・李斯の筆であるという。

これが漢朝の皇帝に受け継がれた。

前漢末に王莽が王朝簒奪した時、王莽は元后に玉璽を渡せと要求した。

元后は激怒し、玉璽を床に投げつけたので、つまみの一角が欠けたという。

玉璽は、霊帝の死後、宦官を皆殺しにするクーデターが起きて皇帝たちが一時逃亡した時に、行方不明になった。

この時に井戸に投げ捨てられたのを、後に孫堅が洛陽を占領したときに見つけた、との説がある。

ただし『三国志』には書いてないし、裴松之の註では忠義の人である孫堅が神器を猫ばばするはずがないとしている。

後に孫呉が晋に降伏した時、孫晧は降伏のしるしに金璽を送った。
だが金であって、白玉ではない。

また、孫堅は玉璽を得たが、袁術が孫堅の妻を人質にして奪い取ったとの説もある。

北魏のことを書いた『魏書』には、446年に鄴の都で五重の仏塔を壊した時、2つの玉璽が出てきて、どちらにも「受命於天 既寿永昌」と刻まれていたとある。

🔵袁紹と袁術はなぜ仲が悪かったのか

袁紹と袁術の本籍地は、豫州・汝南郡の汝陽県である。

ここは首都・洛陽の南で、中原の真っただ中と言える。

そもそも袁一族が隆盛するきっかけは、袁安が3人の皇帝に仕えて三公を歴任した事であった。

袁安の孫が袁湯で、袁湯の孫が袁紹と袁術である。

袁湯の長男・袁成は早死し、次男の袁逢が袁家を嗣いだ。

そして袁逢の子が袁術である。

ちなみに袁術の兄・袁基は、董卓が洛陽にいる袁一族を皆殺しにした時に殺された。

袁成は早死したので子が無かったが、祭祀を絶やさぬため、袁逢が女中に生ませた子である袁紹が養子となった。

つまり実は、袁術にとって袁紹は異母兄にあたる。

袁術は、女中の子である袁紹が人の面倒見が良いことから人気があり、反董卓連合軍の盟主にもなったことが、気に食わなかった。

袁術の母が正妻なので、袁術は「袁紹は妾の子、いや女奴隷の子だ」と公式の場で放言した。

こうしてお互いを憎しみ合うようになったのである。

(以上は2025年6月30日、7月3日に作成)


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