(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
曹操は黄巾軍の討伐に従軍したあと、済南国の相(行政長官)に任命された。
この時に彼が力を入れたのが、淫祀の禁止である。
当時は妖しげな神が至る所に祀られ、その信者を食いものにする悪党がいた。
だが祠を壊したり、祭祀を禁じれば、天罰が下ると信じられていた。
曹操が合理的で冷徹な考え方をすることは、淫祀の禁止からも察せられる。
曹操は済南国の相を辞めると、東郡太守に任命されたが、病気と称して就職せず故郷に帰った。
当時の政治状況から見て、地方行政官でいることが危険だと考えたのだろう。
人民が蜂起すると、太守のような行政官が真っ先に殺されるからだ。
実際にこの頃、187年5月にも泰山太守の張挙が反乱し、右北平太守の劉政と遼東太守の陽終を殺している。
しばらく故郷の譙でのんびり暮らした曹操は、188年に首都・洛陽で官職に就いた。
この年、朝廷は西園八校尉という新しい官職を設けた。
中央政府の軍を8つに分け、それぞれに校尉という司令官を任命したのである。
曹操は八校尉の1つである、典軍校尉に任命された。
曹操の祖父・曹騰は、宦官となって出世した人だが、去勢したので子供を作れず、養子をとった。
それが曹嵩だが、曹嵩は曹氏の者ではなかったらしい。
出身は分かっていない。一説には夏侯氏の者だという。
このため曹操は後年に、政敵から「あいつは宦官の子で、どこの馬の骨か分からない乞食の子だ」と罵られた。
曹嵩は、霊帝が売官を始めると、次々と官職を買った。
最後には1億銭で「大尉」の官職を買った。
曹嵩は187年11月に崔烈の後任として大尉になり、188年4月に辞職している。
189年に霊帝が死去すると、その後に権力闘争が起きて、最終的に董卓が権力を握った。
曹操に対し董卓から、「驍騎校尉に就いて私を助けてほしい」と要請があった。
曹操は「改めて返事の使者を送ります」と答えたが、すきを見て洛陽から逃亡し、父親のいる陳留に向かった。
この時の曹操の脱出行については、『魏書』に次のエピソードが書いてある。
「曹操は数騎を従えて成皋(せいこう)にいる旧知の呂伯奢(りょはくしゃ)を訪ねた。
呂伯奢は不在で、その子と食客は曹操の荷物と馬を掠奪しようとした。
曹操は抜刀して数人を殺した。」
孫盛の書いた『雑記』は、曹操が呂伯奢を訪ねたとき、呂氏に異心があると疑って、彼らを殺したうえで「私が他人を騙してもいいが、他人が私を騙すことは許せぬ」とうそぶいたとしている。
(以上は2025年6月30日に作成)