(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
霊帝の母親は董太后である。
董太后は皇族の1人の妻だったが、桓帝が亡くなった時に子供がいなかったので、彼女の子である劉宏が皇帝に選ばれて霊帝となった。
霊帝が即位してからも、桓帝の妻の竇氏(竇太后)が生きていたので、 彼女は貴人という称号で田舎にとどまっていた。
竇太后が死亡して、ようやく彼女は太后に昇格した。
すると彼女の兄の子・董重は票騎将軍になって、かなりの兵力を握った。
霊帝は、何氏の娘を皇后にした。
何皇后は劉辯を産んだ。
霊帝は妾の王氏にも子を産ませたが、それが劉協である。
王氏は何皇后に毒殺されたので、董太后が引き取って養育した。
霊帝は自分が病死する前、宦官の蹇碩(けんせき)を呼んで、「劉協を後継者にするので頼む」と遺言した。
蹇碩は、西園八校尉という軍の司令官たちを統率する、上軍校尉に就いていた。
霊帝は、大将軍になった何進(何皇后の兄)が実権を独占するのを恐れて、蹇碩にも軍権を与えていた。
蹇碩は霊帝が亡くなると、部下を集めてこう話した。
「私は陛下の遺言を奉じて劉協を擁立する。
そのためには何進を誅殺しなければならない。
陛下が亡くなったので相談がしたいと言って何進を宮中に呼び入れ、斬ればいいだろう。」
ところが蹇碩の部下の潘隠は、何進と親しかったので、何進が来て宮中に入ろうとした時、門の所で待っていて目くばせした。
何進は意味を悟り、引き返して挙兵し、劉辯を擁立して皇帝に就けた。(※少帝の即位)
蹇碩は宦官仲間に密書を送り、「何進を捕えて誅殺しよう」と誘った。
だが中常侍の郭勝は何進と同郷で親しく、何進にその密書を見せた。
何進はそれを証拠に蹇碩を逮捕して処刑し、蹇碩の軍を自分の手に収めた。
上記の皇帝位をめぐる権力闘争の後、西園八校尉の1人である袁紹は、同じく西園八校尉の1人である曹操に、「宦官を皆殺しにするクーデターをやろう」と誘った。
袁紹は宦官皆殺しの相談を、宦官の孫である曹操にもちかけたのである。
曹操は内心呆れただろう。
(※袁紹は何進派なので、宦官たちを滅ぼそうとしたのである)
曹操は「宦官の専横は憎むべきだが、皆殺しにすることはない。元凶を殺せばすむし、その後に宦官に政治権限を与えぬと宣言すればいい。」と説いて断った。
何道は宦官たちを殺す計画を立てたが、袁紹に吹きこまれたのも一因だった。
何進は自身が謀略を巡らせているのに警戒心が薄く、「何太后のお召しです」と言われると、のこのこと参内した。
そして宦官たちに殺された。
何進が宮中で殺されたとき、宮中は袁紹の従弟である袁術が200人の近衛兵を率いて警備していた。
何進派の袁術は、「宦官どもが謀反した」と言って、宦官たちを殺し始めた。
報せを受けた袁紹も兵を率いて宮中に乱入し、宦官を殺した。
この時に殺された宦官は2千余人にのぼったという。
宮廷が大混乱の中、宦官の張譲や段珪たちは、少帝とその弟・陳留王を連れて逃げ出した。
だが途中で兵に追いつかれ、張譲と段珪は自殺した。
このとき董卓は呼び出されて洛陽に着いたところで、皇帝と陳留王を確保(保護)した。
少帝は逃避行の間、側近たちが殺されたりしたので、すっかり怯えていた。
そこに董卓の率いる3千騎が駆けつけたので、それを見た14歳の少帝は「こわいぞ、こわいぞ」と泣き出した。
馬から降りた董卓は、皇帝に近づいて「董卓参上。御守護つかまつる」と言ったが、恐ろしく肥満した巨漢の董卓がドスのきいた声で言ったので、少帝は「こわいーっ!」と全身をふるわせて叫んだ。
重臣たちは「恐くありません、将軍の菫公です」となだめ、頭や背中を撫でた。
重臣の1人が「菫公、兵を退きなされ、早く」と言ったところ、董卓は眉をつり上げて怒鳴った。
「王室が乱れ、国家を混乱させたのは、あなたたちではないか。
私はそれを救うために参上した。
遠路の旅の苦労は言葉にできないほどだった。
それなのに下がれとは何事ぞ!
天子はこのように難を避けてきて、相変わらず朝廷の重臣どもの顔を眺めたいと申されるのか!」
董卓は少帝らを連れて洛陽に入ると、軍事力を背景にして少帝を退位させ、陳留王を新たな皇帝に就けた(※献帝の即位)。
董卓が権力を握ると、袁紹はいち早く冀州に逃げ、曹操も逃亡して父親のいる陳留に向かった。
(以上は2025年6月30日に作成)