(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
匈奴は、モンゴル系の遊牧民で、後漢時代は北匈奴と南匈奴に分裂していた。
南匈奴は後漢朝に臣従し、西河の美稷(びしょく)あたり(現在の山西省・離石県)を本拠地にしていた。
匈奴の王は、「単于」(ぜんう)と言う。
その下に右賢王と左賢王が補佐役として居た。
187年に中山太守の張純が、鮮卑族と組んで独立を図った。
この時に後漢の朝廷は、南匈奴に対して、「幽州牧の指揮下に入り、張純らを討て」と命じた。
南匈奴の単于(羌渠)は、左賢王に兵を授けて幽州に向わせたが、人民は息子たちが兵隊にとられることに不服であった。
それで単于を攻め殺し、右賢王の於扶羅(おふら)が新しい単于になった。
だが於扶羅は殺された単于(羌渠)の息子なので、その即位に反対する人民たちは須卜骨(すぷく)を単于に立てた。
こうして南匈奴は2人の単于を持つことになったが、人民の大部分は須卜骨を認めた。
立場の弱い於扶羅は、189年に自派の数千騎を連れて南下し、洛陽に行って後漢の皇帝から単于だと認めてもらおうとした。
ところがこの年は、霊帝が亡くなったことから、朝廷では権力闘争の大混乱があった。
それで於扶羅は皇帝に拝謁できず、洛陽の周辺を放浪しなければならなかった。
困窮した於扶羅は、洛陽の近くにある白波谷にこもる黄巾軍と同盟を結んだ。
白波谷の黄巾軍は、大将は韓暹で、副将は胡才、李楽らであった。
於扶羅は白波谷に行き加わった。
189年の末に董卓は、部将の牛輔に白波谷の黄巾軍を討伐させたが、牛輔軍は苦戦して兵を退いた。
他方で、須卜骨は即位して1年後に死んだが、南匈奴の人々は於扶羅を望まず、単于を空位にして長老の指導で政治を行った。
於扶羅は単于を称したまま暮らし、195年に死亡して弟の呼廚泉(こちゅうせん) が後を継いだ。
呼廚泉の時代に左賢王をしたのは、於扶羅の息子の豹である。
豹の息子の劉元海は、五胡十六国の前趙を建国した。
五胡十六国の時代は民族大移動があったが、すでに三国時代からその動きはあったと見てよい。
於扶羅と白波谷の黄巾軍の結盟は、その1例である。
匈奴の人は、漢姓を名乗る時は、劉氏が多かった。
漢の高祖(劉邦)が匈奴の単于と兄弟の盟約をし、漢室の娘がしばしば匈奴に嫁いだからである。
(以上は2025年7月2日に作成)