(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
孫堅は、『孫子』を書いた孫武の子孫と自称していたが、証拠はない。
彼は17歳で銭唐の海賊を斬り、1万をこえる会稽郡の賊を千余りの兵で破り、黄巾の乱でも討伐戦に加わった。
董卓討伐の檄文が全国に配られた時、長沙太守になっていた孫堅も討伐に参戦することにして、兵を率いて北上し董卓のいる首都・洛陽を目指した。
彼は自軍に風姫(ふうき)という若い巫女を同行させた。
風姫の神託を信じる者が多かったから、利用したのである。
孫堅は長沙から出陣する時、「このたびは全て風姫の託宣に従うぞ」と宣言した。
荊州刺史の王叡は、大言壮語して威張るので、対人関係が良くなかった。
荊州・武陵郡の太守である曹寅(そういん)も、王叡と仲が悪かった。
王叡は董卓討伐の檄文に応えて挙兵する時、「武陵の曹寅を血祭りにあげてから洛陽に向かう」と宣言した。
脅かされた曹寅が考えたのは、孫堅を利用することである。
「王叡は董卓と通じ、董卓討伐軍を阻止する密約を結んだ。だから斬るべし。」との檄文を孫堅に届けた。
孫堅はこの檄文を、風姫の神託にかけて、「王叡討つべし!」との託宣を得た。
孫堅の率いる2万人の兵のうち、少なからぬ者が風姫の信者だった。
古くから長沙など旧楚国の辺りは神仙信仰が盛んだった。
孫堅は2万の兵のうち、5千だけを率いて王叡のいる荊州城に向かった。
王叡は新兵を募集し、すでに3万人ほど集めていた。
嘘のような話だが、孫堅は兵士募集に応じた体で荊州城に堂々と入城した。
この当時、兵を集めるのはたいていは地方豪族の元気者で、兵を集めて自分が隊長となって乗り込んでくる。
孫堅軍5千も、そうした軍と見られたのだ。
孫堅たちは募集に応じた振りをして王叡に謁見を求め、王叡を襲った。
王叡はせめて自殺したいと言って、金を飲んで死んだ。
金を飲んで死ぬと生まれ変わった時に富貴の身になるという迷信を、王叡は信じていた。
孫堅軍は王叡軍3万人を吸収し、5万人に増えた。
余談になるが、黄金を飲んだおかげなのか、王叡の一族は富み栄え、魏・晋・六朝の時代を通じて「琅邪の王氏」は最高の名門とされた。
孫堅軍は北上を続けて、南陽郡に入った。
南陽郡は人口244万人で、太守は張咨であった。
孫堅は魯陽にいる袁術軍と合流しようとしていたが、その途中に張咨のいる南陽城があったのだ。
孫堅は軍糧をくれと、張咨に申し入れた。
張咨は「遠くから来た軍ではなく、同じ荊州内から来た軍なので、軍糧を与えるしきたりはない」と断わった。
孫堅軍は南陽城外に駐屯したので、張咨は警戒した。
そのうち「孫堅が病発した」との噂が出て、巫女(風姫)が平癒の祈禱とすると告知され城外の広野で行われた。
それだけでなく、「孫堅は危篤になり、率いている5万の軍を張咨に譲ろうとしている」との話が、張咨に伝えられた。
張咨はわずかな供を連れて見舞いに出向いたが、これはワナで、待ち構えていた孫堅は寝室に来た張咨を刺殺した。
張咨の死については、『三国志』は孫堅が張咨を宴会に招き、その翌日に答礼に来た張咨を孫堅が斬殺したと書いている。
重病をいつわり、軍を譲るともちかけて、見舞いに来たのを斬ったと書いているのは『呉歴』である。
『三国志』も註でこの異説を紹介している。
こうして孫堅は南陽城をおとし、魯陽に着いて袁術軍に合流した。
袁術は、孫堅を豫州刺史に任命した。
漢朝が衰えたので、すでに任官を各地の実力者が勝手に行うようになっていた。
董卓が献帝を長安に連れ去ると、各地の実力者は独立を志向するようになり、官職を自称したり、勝手に官職に任命したりするようになった。
孫堅は洛陽に向けて南から攻め上がったが、緒戦では徐栄の軍に敗れた。
孫堅の敗因には、袁術が軍糧をきちんと送らなかったことがあった。
そこで孫堅は戦場から袁術のいる魯陽までいったん引き返し、面とむかって袁術をなじり、補給の保証を得た。
いっぽう董卓は敗走した孫堅を、東郡太守の胡軫(こしん)と呂布に追わせた。
ところがこの2人は仲が悪くて軍がまとまらず、孫堅軍に敗れて、猛将の華雄が孫堅に討ち取られた。
孫堅軍が洛陽に迫ると、董卓は自ら出馬したが、孫堅軍に敗れて澠池(めんち)まで敗走した。
孫堅はさらに、洛陽を守る呂布を破り、呂布も敗走した。
こうしては孫堅は191年2月に洛陽に入城したが、そこは焼野原で住民は居なかった。
孫堅は揚州・会稽郡富春の出身で、中原に比べると田舎とされる地域の出身である。
彼は日本の古代史で言えば、東えびすであり、自分は文明人だとアピールしたかった。
そこで洛陽に入ると、まずあばかれた皇帝陵たちを修復した。
その後に孫堅は、袁術の所に帰還した。
孫堅は(袁術の認可により)豫州刺史を自称したが、袁紹は袁術の配下となっている孫堅を叩くため、周昂(しゅうこう)を豫州刺史に任命して対抗させた。
周昂は袁紹から兵をもらい、豫州刺史の居城である潁川郡の陽城を、孫堅の不在中に攻め落とした。
袁術は孫堅の救援として、公孫越の軍を派遣した。
公孫越は、公孫瓚の弟である。
孫堅はこの援軍を得で陽城を奪回したが、公孫越は流れ矢で戦死してしまった。
公孫瓚は愛憎の情が強く、その家族愛は異常なレベルと言われていた。
公孫瓚は袁紹を恨み、袁紹が盟主の反董卓連合から離れて独立した。
独立した公孫瓚は、部下の厳綱、田楷、単経を、それぞれ冀州、青州、兗州の刺史に任命した。
さらに平原国の長官(相)に、劉備を任命した。
劉備はこの時、歴史の表舞台に登場したが、30歳だった。
なお平原国は青州に属し、人口は百万余りだった。
袁紹は袁術を倒すため、劉表を使うことにした。
劉表は漢王室につながる血統で、誰からも好かれる性格をしていた。
袁紹は、劉表を荊州刺史に任命した。
荊州刺史は、王叡が孫堅に攻められて自殺して以降、空席になっていた。
劉表は単身で荊州に入ると、その地に住む友人の蒯越と蔡瑁の援助を得て襄陽城に入った。
これに対し袁術は、孫堅に「襄陽を一刻も早く奪回しなされ」とけしかけた。
孫堅は襄陽城を攻めたが、劉表の部将・黄祖との戦闘中に矢で射られて戦死した。
孫堅が死ぬと、長男の孫策はまだ16歳なので、孫堅の兄・孫賁(そんふん)が軍の指揮権を引き継いだ。
孫賁は劉表と面識のある桓階を使者にして、「喪のため休戦したい」と申し入れた。
劉表が同意したので、孫賁ら5万人の軍勢は袁術の所へ引きあげた。
(以上は2025年7月2~3日に作成)