(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
蔡邕(さいよう)は、若い頃から老荘思想の「無為にして化す」という自適の人生に憧れつつ、様々な学問をおさめた。
彼は高名な学者となったが、琴の名手でもあったので、桓帝の時代に音楽好きの宦官たちの推薦で朝廷に呼び出された。
だが彼は仮病を使って宮仕えを免れた。
蔡邕は、名声が高まり野にいるのが難しくなると、朝廷で郎中や議郎になり、歴史書の編纂にも当たった。
洛陽で董卓が権力を握ると、蔡邕は董卓から「私に仕えなければ君の一族を殺す」と脅されてやむなく仕え、祭酒(国立大学の総長)に就いた。
董卓の命令で長安に遷都する時に、蔡邕は左中郎将に任命された。
董卓は、学者肌で無欲な蔡邕を気に入り重用した。
長安で暮らし始めた董卓は、「私は太公望にならって、尚父という称号を用いようと思う」と言った。
この時に蔡邕は勇気をふるって反対した。
「周は天下を平定してから、太公望に尚父の称号を与えました。
いま中国の東部には諸将が割拠しています。彼らを平定した後に検討すべきです。」
董卓は「そうだな」と言って、あっさり納得した。
とはいえ董卓は、皇帝の後見役を意味する「太師」を称した。
初平2年(191年)6月に地震があった時、董卓は蔡邕に「どういうことか」と問うた。
(※当時は天変地異は政治と関係していると信じられていた。
蔡邕は高名な学者なので董卓は質問したのである。)
蔡邕は、「地震は陰が陽を侵すことから起きます。あなたが金華青蓋の車に乗り、臣下が漢朝の制度を越えたせいでしょう。」と答えた。
金華青蓋の車は、漢朝では皇帝の息子しか乗れないルールだった。
それに董卓が乗ったことを批判したのである。
この時も董卓は、「では黒蓋の車に乗りかえよう」と素直に聞き入れた。
蔡邕の娘・蔡琰(さいえん)は、衛仲道という者に嫁いだが、この夫が亡くなると実家に戻り蔡邕と暮らした。
彼女に子供はいなかった。
蔡邕は蔵書家で、当時は書物が貴重なので、閲覧に来る客が多かった。
それに応対したのが娘の蔡琰であった。
ちなみに蔡琰は、字は文姫だが、作家の郭沫若が彼女を主人公にした劇「蔡文姫」を書いたことで、字のほうが有名になった。
蔡家の蔵書は、中国動乱の中で失われた。
だが十数年後に蔡琰は曹操の命令で、暗記している文章を書いて復原した。
その数は四百篇にのぼった。
正しく才女であった。
(以上は2025年7月4日に作成)