タイトル王允の政権はすぐに滅亡、李傕らが権力を握る

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

王允たちが謀略で独裁者・董卓を192年4月に殺すと、王允の政権が始まった。

王允政権では、旧董卓軍をどうするかが議題となった。

董卓の女婿の牛輔は軍を率いて長安(王允や献帝のいる首都)の近くにいたし、東方では反董卓連合軍と戦うため李傕、郭汜、張済らが滞陣していた。

旧董卓軍について、奮威将軍の呂布(王允政権の軍事担当)は、「ことごとく殺せばいい」と主張した。

また車騎将軍の皇甫嵩は、「旧董卓軍を長安から離すため、陝県に移しましょう」と説いた。

だが王允は、どちらも採用しなかった。

自分たちはどうなるのかと不安になった李傕は、長安に使者を送って、特赦を乞うた。

重臣たちはこれを認めようとしたが、トップの王允が却下して言った。「一歳不再赦の原則がある。それを破ることはできない。」

1年間に2回以上の特赦をしない決まりが、後漢朝にはあったらしい。

この年(192年)は、すでに1月に大赦令が出ていた。だからもう出せないと王允は言ったのだ。

李傕は赦されないと知ると、長安を攻める決心を固めた。
杓子定規の前例墨守が、王允政権を殺したと言える。

一方で、呂布は部下の李粛に兵を授けて、牛輔を討たせた。

ところが李粛は敗走して帰ってきたので、呂布は李粛を殺してしまった。

牛輔は筮竹(ぜいちく、占い)気違いで、易者の占いに頼っていた。
かつて牛輔が中郎将の董越を殺したのも、占いを自己流に解釈した結果だった。

牛輔は、お抱えの易者が「軍を捨てて去れば吉です」と告げると、自軍を捨てて夜逃げすることにした。

夜逃げのさい、持ち出す財宝を胡赤児という胡人の奴隷に担がせた。

胡赤児は牛輔を殺して財宝を奪い、牛輔の首を長安に届けた。

王允から「赦さず」との返事をもらった李傕たちは、軍を解散して故郷(涼州)に帰ることも考えた。

だが討虜校尉の賈詡が、「軍を解散させたら私たちは逮捕されますよ。思い切って長安に押しかけましょう。長安攻めに失敗してから逃げるのも同じじゃないですか。」と説いた。

それで彼らが長安に向かったところ、旧牛輔軍などが合流してきて、軍勢は3万人から一気に10万人に増えた。

王允は李傕軍に対し、胡軫(こしん)と徐栄に迎撃させた。

この2将は董卓の部下だった者で、徐栄は曹操軍を破ったことのある猛将。

徐栄は真面目に李傕軍と戦い、李傕軍から「われらは元は仲間ではないか。兵を退け。」と呼びかけられたが戦い続けて戦死した。

逆に胡軫は、あっさりと李傕側に鞍替えした。

李傕らの軍が長安に近づくと、長安城内にいた旧董卓軍の将である樊稠(はんちゅう)や李蒙も城を出て合流した。

王允政権で軍事を任されていた呂布は、自分と同じ出身地(并州)の将兵をひいきにして、旧董卓軍(多くは涼州や益州の出身)の将兵をぞんざいに扱っていた。

そのため李傕軍に寝返る者が多かったのである。

李傕軍は『三国志』によれば10日、『後漢書』によれば8日で、長安城をおとした。
王允政権は発足から40日も保たなかった。

呂布は部下たちと長安を脱出し、南陽にいる袁術を頼って落ちのびた。

太僕の魯馗(ろき)、大鴻矑の周奐、城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎(おうき)、太常の种払(ちゅうふつ)は戦死した。

王允と黄琬は捕まり、処刑された。
王允の享年は56歳、彼の一族もことごとく殺された。

李傕は長安城を落とすと、すぐに皇帝(献帝)に迫って大赦令を出させた。
これで旧董卓派は免罪となった。

そして李傕らは朝廷から将軍や中郎将に任命された。

(以上は2025年10月12日に作成)


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