(『眞説三國志』坂口和澄著から抜粋
2003年9月後半にノートにとり勉強)
🔵董卓 ?~192年
涼州・隴西郡(ろうせいぐん)の出身。
生まれつき武芸に秀で、特に騎射が巧みだった。
若い頃は遊侠気取りで、羌族の親分と交わっていた。
167年 張奐(ちょうかん)に従って并州を平定。武功により昇進したが免官になる。
その後、并州刺史、河東太守に任命された。
184年 黄巾党の討伐に加わるが敗北し、免官に。
187年 涼州にて韓遂らの反乱を防ぎ、董卓軍のみが無事に帰還した。
188年 朝廷は董卓が信用できないとして兵権を返すよう命じるが、董卓は涼州が不穏な情勢であることと、兵士が自分を慕って離れないことを理由に拒否した。
189年 并州の牧に任じられ、兵士を皇甫嵩に預けるよう命じられるが、拒否する。
この年に霊帝が死去し、10代の少帝・劉辯(りゅうべん)が皇帝になった。
霊帝の未亡人・何太后の兄・何進が実権を握り、宦官を一掃しようと図る。
何太后が許可しないので、何進は圧力をかけようと考えて、軍隊を持つ董卓を都に呼んだ。
ところが董卓が洛陽(朝廷のある都)に入る前に、何進は宦官たちに殺されてしまう。
それを見た袁紹は兵を宮廷内に入れて、宦官を皆殺しにした。
段珪らは、少帝と陳留王を奪って洛陽を脱出するが、そこで董卓軍に遭遇。
董卓は段珪を殺して、少帝を連れて都に戻った。
189年9月 洛陽の軍権を握った董卓は、少帝を廃して陳留主を帝位に就けた。これが献帝である。
何太后は毒殺された。
ここからは董卓の独裁政治となり、董卓が暴虐を始めたので、翌190年1月に董卓討伐の連合軍が結成された。
190年2月 董卓は先帝(劉辯)を殺し、長安への遷都を決行。
洛陽の陵墓をあばき、宝物を奪った。
董卓の一族はみな高官になる。
長安から100kmの郿(び)に砦を築き、30年分の穀物を貯えた。
董卓は、逆らう者は処刑した。
寵愛する下僕が好き勝手をした事で処刑されると、「たとえ愛犬であってさえ、他人には叱りつけられたくないものだ。まして人間だぞ」と言い、処刑した者をムチで打ち殺させた。
董卓軍は長年にわたり羌族と戦っていたため、訓練されて強かった。
さらに董卓討伐軍にはまとまりがなく、攻めきれなかった。
192年4月 養子にしていた呂布に殺される。
呂布は董卓の侍女と私通しており、その露顕を怖れていた。
呂布は王允にそそのかされ、父子の約束をしていたにもかかわらず董卓を殺害した。
なお『三国演義』に出てくる美女・貂蝉は実在しない人。
後世に作られた架空の人である。
🔵李傕(りかく) ?~197年
元は董卓の部下だった。
董卓の死後、賈詡の献策を入れて長安を攻撃し、陥落させる。
そして郭汜(かくし)、樊稠(はんちゅう)、張済(ちょうさい)らと高官に就く。その後に暴虐の限りを尽くす。
馬宇、馬騰、劉範(劉焉の子)らのクーデター計画があったが、露顕して失敗。
樊稠を韓遂と通じていると疑って殺害する。
郭汜と仲違いし、195年春に長安市内で戦争を始める。同年7月に張済の仲介で和睦。
この混乱の隙に、献帝は董承および李傕に背いた楊奉らと逃亡する。
李傕と郭汜は追撃するが、楊奉が招いた白波賊の韓暹(かんせん)、胡才、李楽らに大敗して、献帝を奪回できず。
196年 献帝は洛陽に入り、9月になると曹操の手で許に移住する。
197年 李傕は、裴茂(はいぼう)の軍に敗れて、処刑される。
郭汜は部下に郿で殺される。
韓暹と楊奉は徐州、楊州を荒らし回るが、楊奉は劉備に捕まり、韓暹も殺された。
🔵呂布 ?~198年
并州・五原郡の出身。
はじめは丁原に仕え、189年に丁原と洛陽に入る。
董卓に誘われて、丁原を殺して董卓の配下になる。
董卓と父子の契りをし、身辺警護をしていたが、董卓の侍女と私通していたのもあり、王允の誘いに乗って董卓を殺害する。
その後、李傕らに敗れて長安を去る。
194年 曹操が陶謙を攻めに徐州に出陣している間に、曹操の支配する兗州に攻め込む。
急いで引き返してきた曹操軍と対峙する。
195年正月 曹操軍に敗れる。
その後、徐州で陶謙の後を継いだ劉備を頼って身を寄せる。
196年 劉備が表術と戦っている間に、劉備の居城・下邳城を襲撃して陥落させる。
その後、一度は劉備と和睦するが、結局は劉備を追い出す。
劉備は曹操の配下になる。
197年 袁術の息子と自分の娘を婚姻させていたが、陳珪にだまされて婚姻を破棄してしまう。そして曹操と結ぶ。
袁術は怒り、張勲に命じて攻撃させたが、呂布は撃退した。
198年 曹操と手を切り、再び袁術と結んだ。
徐州の沛城にいる劉備を攻撃して撃破。
救援に来た夏侯惇も、呂布の部下の高順が撃破した。
曹操自らが大軍を率いて、徐州に攻めてくる。
呂布は下邳城にこもるが、三ヶ月後に降伏した。
呂布は曹操に助命を願うが、曹操は劉備の進言もあって、呂布を処刑した。
🔵陶謙 ?~194年
揚州・丹陽郡の出身。
地元で出仕し、やがて県令になる。
官吏としては清廉潔白だったが、根気がなく官職を辞める。
西羌族の討伐に皇甫嵩の部下として従事する。
邊章(へんしょう)、韓遂の反乱時は、張温の部下として従軍。
戦後に張温と不仲になり左遷される。
陶謙は自尊心が強く、協調性に欠け、組織の中ではうまくやっていけない偏屈な人だった。
184年 黄巾の乱が起きると、徐州刺史に任命されて討伐に向かう。
徐州は当時、物は豊かだが、良い政治が行われてなかった。
陶謙は、天子を自称する下邳の闕宣(けつせん)と組んで略奪をした。
だが後に闕宣を殺害した。
193年 曹操が、陶謙の部下に父を殺された恨みで、徐州に侵攻してくる。
彭城以下の十数城が陥落し、曹操軍は数十万人を殺害した。
陶謙は、公孫瓚の部下である田楷に救援を求めたが、劉備が派遣されて来た。
劉備が到着した時、曹操は兵糧不足ですでに退却していた。
陶謙と劉備は意気投合し、劉備は田楷を離れて徐州に残った。
194年 再び曹操が徐州を攻撃し、劉備は敗れた。
だが呂布が兗州に攻めたため、曹操は退却した。
この年、陶謙は病気で危篤になり、後を劉備に託して死亡した。
🔵公孫瓚 ?~199年
幽州・遼西郡の出身。
容姿に優れ、頭の回転が早く、弁舌も爽やかだったため、郡の太守に見込まれて娘と結婚し、盧植の許で学ぶ。
劉備とは盧植の塾で同門。
孝廉に推挙され、官途につく。 鮮卑族の討伐で活躍する。
178~183年頃 涼州の鳥丸を討伐するが、うまくゆかず。
劉虞(りゅうぐ)が幽州の牧になった時、配下になる。
だが仲違いして、董卓の時代になると幽州を乗っ取る。
袁紹と袁術の争いでは、袁術側に付いて従弟の公孫越を派遣する。
しかし公孫越は袁紹軍に殺された。
192年 界橋にて表紹軍と戦い、大敗する。
同年 劉備、単経(ぜんけい)、陶謙らに袁紹を攻撃させるが、袁紹が曹操と連合したため大敗する。
193年 劉虞が攻めてくるが破り、捕らえる。
劉虞は漢朝の一族で、忠誠心も厚いため帝は使者を送ってきて、劉虞を六州の統治者にしようとするが、公孫瓚は使者を脅し、劉虜を斬殺した。
劉虞の部下たちは燕国(えんこく)の閻柔(えんじゅう)を盟主にして、劉虞を慕っていた烏丸と鮮卑と共に攻めてきた。
これに袁紹も肩入れしたため、公孫瓚は大敗して、易京に逃げて籠城した。
袁紹は何年もわたり易京の攻撃を続け、199年に地下道を掘って陥落させた。
公孫瓚は自害した。
🔵袁術 ?~199年
豫州・汝南郡の出身。名門の出である。
袁紹の従弟。孝廉に推挙されて昇進していった。
189年 董卓が洛陽で権力をにぎる際に、味方になるよう誘われるが拒否して、南陽に脱出する。
ちょうど孫堅が南陽太守の張咨(ちょうし)を殺害したばかりで、孫堅を配下にして南陽を拠点にする。
上表して孫堅を豫州刺史に就けて、董卓を攻めさせる。
南陽でぜい沢三昧をし、厳しく税金を取り立てて、人々を苦しめる。
袁紹と以前から不仲で、公孫瓚と結ぶ。
袁紹は劉表と結んだ。
191年 孫堅に命じて劉表を攻めさせるが、孫堅は戦死してしまう。
192年 袁紹と戦争に。公孫瓚に援軍を求めて、劉備、単経(ぜんけい)、陶謙が来る。だが袁紹・曹操の連合軍に敗れる。
193年 曹操と戦って敗れ、逃亡。
楊州刺史・陳温を殺害して、揚州を支配する。
194年 皇帝を名乗ろうとするが、配下に止められる。
197年 ついに皇帝を名乗る。贅沢をさらに進めて、領民は食べ物が無くて共食いをする惨状に。
同年 呂布を攻めるが、呂布が韓暹、楊奉と連合したため、大敗する。
袁術はさらに曹操にも大敗する。
配下の陳蘭、雷薄(らいはく)を頼るが、見離される。
199年 青州の袁譚の元に身を寄せる途中で病死した。
🔵袁紹 ?~202年
豫州・汝南郡の出身。名門の出である。
官職につくが、名門の者なので昇進を重ねる。
189年 何進と共に宦官の誅滅を図るが、何太后が許さず。
そこで軍事力のある董卓を呼び寄せて、何太后に圧力をかけようとする。
何進が宦官たちに殺されると、袁紹は暴発して宮中に押し入り、宦官を皆殺しにする。
董卓が都に入ると袁紹は追い出された。
190年 董卓討伐軍の盟主になる。
しかし董卓そっちのけで、韓馥(かんふく)と共に劉虞を皇帝にしようと画策する。これは失敗に終わる。
韓馥を脅迫して、冀州を奪う。
192年 袁術、公孫瓚の連合軍に対し、曹操と組んで戦い勝利する。
196年 曹操は献帝を許の都に迎え入れた。
それ以前、袁紹配下の郭図も帝に着目し、帝を迎えるよう進言したが、袁紹は聞かなかった。
袁紹は「帝を自分の所によこせ」と曹操に言うが、曹操は断わり、2人の仲がこじれる。
199年 公孫瓚を滅ぼし、幽州を支配下に入れる。
長男の袁譚を青州、次男の袁煕を幽州、甥の高幹を并州に置き、治めさせる。
審配、逢紀に軍を統率させて、田豊、荀諶(じゅんしん)、許攸(きょゆう)を参謀に就ける。顔良と文醜を将軍にする。
200年 白馬にいる曹操配下の劉延を攻めるが、曹操が軍を率いて来ると兵を二つに分けて当てる愚行をする。
曹操との戦争で、顔良と文醜が戦死。
同年10月 許攸が寝返り、曹操に「淳于瓊らが守る鳥巣(うそう)の防備が甘い」と教える。
曹操はそこを急襲する。
袁紹はこの隙に曹操軍の本営を落そうと考えて、張郃、高覧に攻めさせた。
だが淳于瓊の敗北を知った張郃が、曹操に降伏。
これを機に勝敗が決まり、袁紹軍は撤退する。
202年 袁紹は病死。
この後、袁譚と末子・袁尚の間で後継者争いが起きる。
🔵劉焉(りゅうえん) ?~194年
荊州・江夏郡の出身。名門の出である。
いくつかの官職を歴任するも、漢朝に見切りをつける。
そして朝廷に対し、「清廉な重臣を地方に派遣して治めさせるべきだ」と進言し、自らを益州の牧にしてもらう。
この時に黄琬は豫州の牧に、劉虞は幽州の牧に選ばれる。
188年 益州に入る。
寛容な政治をしつつ 自立をはかる。
張魯と結び、朝廷との連絡を断つ。
次々と益州の豪族を滅ぼして、権力を拡大させる。
荊州を治める劉表は、朝廷に「劉焉は専横で問題だ」と訴えた。
帝は、都にいる劉焉の子・劉璋を使者として送り真意を問うたが、劉焉は返事をせず劉璋を益州にとどめた。
194年 病死。劉璋が後を継いだ。
🔵劉表 ?~208年
兗州・山陽郡の出身。身長は190cm以上。
若い頃から名を知られ、何進の属官になる。
189年 荊州刺史に任命され、荊州に赴任。
当時の荊州は一揆が盛んで、南陽は袁術が支配していた。
劉表は、土地の有力者である蒯良、蒯越、蔡瑁らと結んで、一揆の頭目を皆殺しにした。
190年 袁紹と同盟する。
袁術配下の孫堅が攻めてくるが、大勝する。孫堅を討ち取る。
193年 董卓の配下だった張済が攻めてくるが、討ち取る。
劉表は、小軍閥たちを倒し、荊州全てを押さえて、兵10万人以上を支配下に入れた。
学校を開設して、広く儒者を求めたので、名士が集まってきた。
韓嵩と劉先は、「あなたは袁紹、曹操と並び立つべきだし、そうしないなら曹操に付くべきだ」と進言した。
しかし劉表は聞き容れず。
207年 曹操が烏丸の征伐に出た際、劉表の配下になっていた劉備は「この機に許(曹操の本拠地)に攻め込むべきだ」と進言した。
しかい劉表は聞き容れず。
208年 病死する。
🔵張魯 ?~?年
豫州・沛国の出身。
126~144年頃に、沛国の張陵という者が蜀(益州)の山中で道術を学び、書物を著して人々に説いた。
この道術(五斗米道)を学ぶ者は、五斗(9リットル)の米を謝礼として差し出したため、世間では米賊と称した。
張陵の死後は息子の張衡(ちょうこう)が指導者となり、張衡の死後は張魯が継いだ。
張魯の母は鬼道(妖術)をよく行い、また美人で、劉焉(益州の牧)と親交があった。
劉焉は張魯に官位を与えて、張脩と共に漢中太守・蘇固を討たせた。
漢中を平定すると張魯は張脩を殺して、劉焉に逆らい独立した。
このため劉璋の代になると、張魯の母と家族は皆殺しになった。
張魯は自らを師君と称して、信者たちの長を県令や県長の地位に据えた。
行政単位と「治」として、長たちを治頭と呼ばせた。
治頭の下に大祭酒、祭酒を置き、一般の信者を鬼卒と称した。
漢中の一円に義舎(無料宿泊所)を設けて、食料を用意し、旅客に供した。
後漢の朝廷は、張魯を漢中太守に任命し、貢物を献じる義務のみ課した。
これは、下手に刺激しない方がいいと判断したためである。
215年に、曹操が漢中に攻めてきた。
張魯は降伏しようとするが、弟や部下に説得されて戦うことに決めた。
張魯は、本拠地の南鄭から巴中に逃げた際、部下が「財貨の全てを焼却するように」と進言したのに、「財宝は国家の所有物である」と言って、そのままにして退去した。
この行いを曹操は高く評価し、張魯は降伏を許されて、優遇された。
張魯たちの宗教「五斗米道」は、後魏時代の冠謙子(こうけんし)によって道教として大成された。
余談になるが、張角の説いた太平道は、元は于吉(徐州琅邪郡の出身)が説いたもので、呪い(まじない)の護符や水で病気を治療するものだった。
病気が治れば信心が深いとし、治らなければ信心が浅いとした。
(2024年12月30~31日に作成)