タイトル192~193年の中国情勢、各地で戦争

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

192年4月に董卓を暗殺して誕生した王允の政権だが、わずか1ヵ月ほどで(董卓の配下の)李傕らが大軍で長安に攻めてきた。
長安城はすぐに落ち、王允政権は滅ぼされた。

王允らは処刑され、呂布は逃亡した。

こうして献帝らの朝廷は、今度は李傕たちの支配下となった。

193年に入ると、李傕は車騎将軍に、郭汜は後将軍に任命されたが、2人の不和の噂が流れ始めた。

いっぽう、長安から逃げた呂布は袁術を頼ったが歓迎されず、次は河内郡(洛陽の北50kmにある)の太守である張楊を頼った。

だか張楊にも歓迎されず、冀州の袁紹を頼ることにした。

話はさかのぼるが、黄巾の乱の時期に、黒山賊を率いる張燕は、河内郡の山賊である孫軽や王当を配下に加えて暴れ、最盛時は100万人を率いると言われた。

黒山とは地名で、張燕たちはそこを拠点にした時期があった。

弱体化していた朝廷は黒山賊を討伐できず、帰順を呼びかけたが、張燕は応じて2千石の官職・燕平難中郎将に任命された。

そして黒山賊は生き続けた。

193年の当時、南陽を拠点とする袁術は、食糧は南方からの供給に頼っていた。

だが南方(荊州)にいる劉表は、その供給を止めた。袁紹に依頼されたからである。

困った袁術は食糧を求めて193年の春に、北上して曹操がいる兗州に向かった。そして封丘に駐屯した。

この袁術軍に、南匈奴のオフラと、黒山賊の一部が加わった。

曹操は袁術軍を破り、袁術軍は揚州に逃げた。

このとき揚州の刺史は、陳瑀(ちんう)だった。

前年(192年)に揚州刺史の陳温が病死した際、袁紹は袁遺を後任として派遣したが、袁術はそれを追い払って陳瑀を揚州刺史に任命していた。

(※この時期になると、朝廷が機能しないので、群雄が勝手に各地の刺史などを任命し始めていた)

陳瑀にとって袁術は刺史にしてくれた恩人なのだが、陳瑀は逃げ込んだ袁術軍をむかえ入れなかった。

そこで袁術は、陳瑀のいる寿春に攻め寄せたが、陳瑀は袁術軍が来る前に遁走した。

こうして袁術は南陽を放棄して、揚州を手に入れた。
食糧難と敗戦を機に拠点を移したのである。

話を呂布に戻すが、呂布が袁紹の所に到着した時、袁紹は領土内の賊を討伐していた。

呂布を加えた袁紹軍は、黒山賊系の于毒の率いる軍を滅ぼした。

続けて常山郡にいる張燕軍と鹿腸山で戦ったが、10余日戦っても勝敗がつかず、双方が兵を退いた。

その後、袁紹にも嫌われた呂布は、またも流浪の旅に出た。

中国の北部では、幽州の公孫瓚と冀州の袁紹が戦争をし、両軍共に食糧が尽きて農民から掠奪する状況となった。

193年1月に両軍は、長安にいる献帝から趙岐という使者が鎮撫のため派遣されて来たのを機会に、和解した。

この戦争は、青州をめぐるものだった。

この頃になると、各地の実力者は勝手に刺史などを任命するようになった。

それで公孫瓚は田楷を青州刺史に任命し、袁紹は息子の袁譚を任命したのである。

青州をどちらが取るかで、2年も戦い続けたのが、上記のように献帝の仲介でようやく和解した。

ちなみに劉備は191年頃に平原国の相に任命されたが、これも公孫瓚から任命された ものである。

袁紹や袁術も平原国の相を任命したのだが、実力のある劉備が支配者となったのだ。

劉備は中山王・劉勝の末裔という血筋を称していたが、これは疑わしい話だ。

劉備の祖父は県令をつとめた人だが、父は早く死に、母はわらじやむしろを売って生計を立てていた。

中国の東部にある徐州は、東海、琅邪(ろうや)、彭城、広陵、下邳の5つの郡国があり、人口は300万人と言われていた。

この時期は、中原(中国の中部)の戦乱から逃げてきた人々が流入し、人口は増えていたが、豊かな土地なので充分に養えた。

徐州は豊かなので富豪も多く、糜竺は特に有名だった。

徐州で、笮融という富豪が仏教に熱中した。
当時の中国にとって、仏教は入ってきたばかりの新しい宗教だった。

『後漢書』の陶謙伝によると、笮融はやくざの親分のような男で、子分を率いて運送業をしていた。

徐州刺史の陶謙は、笮融と癒着し徐州の糧食輸送の独占権を与えた。

笮融は事業で得たカネで、仏教の寺を創建した。
黄金像を作り、食事所を設けて座席を道路に並べたので、万余の人々が集まったという。

当時の仏寺は、「浮屠祠」と呼ばれていた。

浮屠とはブッダ(仏教)のことだが、小さな祠のような所が仏教徒の集会所だったからだ。

本格的な伽藍は、笮融のつくった徐州の寺が最初だった。

陶謙は揚州丹陽郡の出身で、江南の出である。元から徐州の人ではない。

陶謙は、張温の配下として西方に出征し、徐州で黄巾軍が暴れると徐州刺史に任命されて討伐を担当した。

だが彼は、黄巾の乱以後はこれといった功名はあげず、反董卓連合軍にも参加しなかった。

陶謙は193年に、「下邳郡の闕宣(けつせん)が自分は皇帝の子だと称して反乱した」と言って、討伐した。

陶謙は一時は闕宣と結んでいたのだが、闕宣を崇める2万余人が起こした反乱を鎮圧することで、武名を上げようとしたのだろう。

(※この本(秘本三国志)では、劉備が徐州の混乱を狙って闕宣をそそのかして反乱させ、陶謙にその討伐をけしかけたという話を創作している。

そして闕宣の教団に、劉備が配下の趙雲を送り込んで反乱を操ったとし、さらに曹操の父・曹嵩を趙雲たちが襲って殺したとしている。

劉備が裏で画策していたと、著者は推理し描いたのである。)

正史では、闕宣の反乱は「闕宣は自らを天子(皇帝)と称し、はじめは陶謙と共に侵略・掠奪をした。だが後になり陶謙は闕宣を殺して、その衆徒を合併した。」とある。

曹嵩は戦火を避けて、(徐州にある)山東半島の琅邪国に疎開していた。

息子の曹操が兗州を平定して、父に移住を勧めたので、曹嵩は兗州に向かった。
ところが途中で襲われて殺されたのである。

この事件について、清朝の時代に王夫之が書いた『読通鑑論』では、「陶謙が金持ちである曹嵩の荷物が欲しくなり、別将の手を借りて奪った」と推理している。

(以上は2025年10月13日に作成)


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