タイトル195~197年の中国情勢、徐州や揚州など

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

徐州を支配する陶謙に仕えていた大富豪の笮融は、曹操が攻めてきて徐州が破壊された193~194年に、数万の群衆を率いて南に逃げ、徐州の南部にある広陵郡に避難した。

ちなみに有能ではない陶謙が徐州を治めていられたのは、大富豪の糜竺と笮融が支えたからだった。

笮融は広陵に着くと、広陵太守の趙昱(ちょういく)に歓待されたが、酒宴の最中に部下に趙昱を殺させた。

笮融は広陵の町(現在の揚州市)を掠奪し、自分の率いる群衆を養った。

この後に笮融は南下して、(揚州の丹陽郡にある)秣陵(後の建業、現在の南京市のあたり)に行き、薛礼(せつれい)の領地に身を寄せたが、隙を見て薛礼を殺した。

いっぽう陶謙が194年に病死して、後を継いで徐州を治めることになった劉備は、流浪して徐州に来た呂布を仲間に引き入れた。

この時、 劉備の側近である関羽と張飛は、「呂布は主君を2度も殺しています」と大反対したのだが、劉備は笑いながら「私は呂布を使いこなす自信がある」と言った。
これは劉備の自信過剰であった。

劉備は、呂布を小沛城に置いた。

しばらくして袁術が徐州に攻めて来たので、劉備は淮陰に出向いて対峙した。

劉備は、徐州の州都である下邳城に、張飛を守将として残し置いた。

ところが張飛は、元は陶謙の部将で下邳の行政長官をする曹豹とケンカを始めて、曹豹を殺してしまった。

下邳城はこれで大騒ぎとなり、張飛は孤立した。
それを見た呂布は、下邳城を攻めて奪うことにした。

張飛はあっという間に城から追い出されたが、この時に劉備の家族が呂布の捕虜になった。

この時期は、戦乱のため百姓は農耕に専念できず、各地で食糧不足となり兵士たちはいつも飢えていた。

兵士は皆痩せ衰えており、戦争は飢えた集団の食い合いと言えた。

劉備軍も淮陰へ進軍したが食糧がなくなり、百姓から奪おうとしたが見つからず、「互いに食い合う」と史書が記す地獄絵図となった。

こんな状態なので、袁術軍にあっさり負けた。

そこに張飛がやって来て、「呂布に下邳城を奪われました」と報告した。

劉備は生きるため、呂布に降伏すると決めた。

下邳城に敗残の劉備軍が戻ると、呂布は降伏を認めて、劉備に小沛城を与えた。
劉備の家族たちは無事で、劉備に返された。

この時、呂布は劉備にこう言った。
「私は受けた恩義は忘れない。劉備どのは敗残の私に小沛城をくれた。だから私も敗残のあなたに小沛城を与えよう。」

なお、呂布が下邳城を襲ったのは、袁術が密書を送ってけしかけたというのが定説である。

だが下邳城内の曹豹が呂布と手を結んだとの説もある。

下邳城の北にある(兗州の最東端の)泰山郡は、小さな軍閥が独立勢力として存在していた。

その軍閥は、臧覇(ぞうは)、孫観、呉敦(ごとん)、尹礼といった将が率いていた。

袁術は、紀霊に3万の兵をさずけて、小沛城の劉備を攻めさせた。

このとき、「共に劉備を討とう」との密書が、呂布の所に届いた。

呂布の部下たちは「良い機会です。劉備を叩きのめしましょう」と口を揃えた。

呂布が劉備を頼って来た時、劉備は仲間に加えたが、劉備の部下たちは「主君を2人も殺した人でなしの呂布を、なぜ助けるのか」と不満を抱く者が多かった。
だから劉備の部下は、呂布やその部下に街で会っても、無視することがしょっちゅうだった。

呂布の部下たちはそれで頭にきていたから、「劉備を叩きのめしましょう」と提言したのである。

だが呂布は首を横に振った。

呂布は、劉備を倒した袁術が超A級の勢力になるのを恐れた。

それで呂布は、劉備を助けることにし、劉備に会って「私は和睦の仲介をしたい。一緒に紀霊の陣まで出かけよう」と誘った。

劉備は了承し、2人は紀霊の陣地に向かった。

現れた呂布の後ろに劉備がいるのを見た紀霊は仰天し、気を呑まれた。

呂布は和睦をすすめて、紀霊が拒否すると、「ここは1つ、天意を問うてみようではないか」と言って、200m離れた所に戟を立てた。

呂布は「私があの戟の胡(刃と柄の接合点)を射る。当たれば戦いを止めて引きあげる。当たらなければ戦いなさるがよい。」と言って弓を射た。

矢は見事に胡に当たり、感服した紀霊は退却した。

上の一件で呂布は劉備を助けたわけだが、この後、劉備は呂布の下を去ることにした。そして曹操のいる許の都に向かった。

許は、洛陽の西南160~170kmの所にあり、曹操が献帝を迎えてからは中国の首都となり急速に栄え始めていた。

この少し前、献帝は196年7月に韓暹や楊奉に護衛されて、かつて首都だった洛陽に帰還した。

だが献帝の側近たちは密かに曹操に手紙を送り、「洛陽に来て献帝の身辺にいる悪党どもを退治してほしい」と依頼した。

ここでいう悪党どもとは、白波賊系の韓暹や楊奉のことだ。

曹操が攻めてくると、韓暹や楊奉は逃げた。

董昭の建議で献帝が許に移住したのは、196年9月だった。

劉備が亡命してきた時、許は献帝を迎えて活気の出た状態だった。

曹操に担がれて許に移住した献帝は、さっそく曹操を大将軍に任命した。
そして袁紹を太尉に任命した。

ところが袁紹は、「曹操がオレより上の地位とは何事だ!オレは奴を何度も助けてきたんだぞ!」と激怒した。

かつて袁紹は曹操を東都太守にしてあげた事があり、曹操が呂布と戦った時に援助してあげたのも袁紹であった。

そこで曹操は大将軍のポストを袁紹に譲り、自分は司空に就任した。
司空は、今でいえば副首相のようなポストである。

劉備が許に現れた時、曹操は劉備と敵として戦争したこともあったのだが、人材を求めていたので劉備を受け入れ、豫州の牧(長官)に任命した。

この記事の冒頭で、笮融が南下して揚州に移住したことを書いた。

揚州は、中国の東南部にある。
そこは、朝廷から揚州刺史に任命された劉繇(りゅうよう)が治めていた。

劉繇は漢王室ゆかりの者で、兄は反董卓連合軍に加わりその後に戦死した劉岱である。

当時の揚州の州都は寿春であった。

袁術が揚州にやって来て、支配地を広げ寿春を拠点にした。
劉繇は歯が立たないので西方に行き、豫章郡を拠点とした。

豫章郡の太守は周術だったが、病死した。

すると袁術は諸葛玄を豫章太守に任命した。
一方、曹操は朱皓を豫章太守に任命した。

こうして2人の太守が争うことになったが、劉繇と笮融は朱皓に味方した。

諸葛玄は敗れて逃亡した。

ここで笮融は、自分が豫章郡を得ようとして朱晧を殺した。

これに怒った劉繇は笮融を攻め、山に逃げ込んだ笮融は土地の者に殺された。

そして豫章太守には華歆が就いた。

華歆は、以前は長安で太傅をつとめる馬日磾(ばじつてい)の幕僚をしていた人だ。

ちなみに敗れた諸葛玄の甥が、諸葛亮である。
諸葛玄は山中に逃げ込んだが、翌年に土地の者に殺された。

揚州では、孫堅の戦死(192年)から数年が経つと、その長男の孫策が武名を上げ始めた。

ちなみに孫堅の次男の孫権は目が青いので、人々は「碧眼児」と呼んでいた。(※もしかすると外国人か少数民族の血が入っていたのかもしれない)

袁術が徐州を攻めた時、袁術は揚州・廬江郡の太守の陸康に米の供出を命じたが、陸康は断わった。

そこで袁術は配下の孫策に、「陸康を倒したらお前を廬江太守にしよう」と持ちかけた。

孫策は廬江城を攻め落としたが、袁術は約束を守らず、自分の直系の部下である劉勲を太守に任命した。

孫策が袁術に嘘をつかれたのはそれまでもにもあり、袁術は孫策に対し九江太守にすると匂わせながら直系の陳紀を太守にした。

劉繇を寿春から追い出した時も、その後釜に直系の恵衢をすえた。

冷遇が続くので、孫策は密かに自立を決心した。

袁術は新たに、孫策に揚州の会稽郡を攻めさせた。

会稽郡は東部にあり海に面した土地で、太守の王朗は名目だけで、侠客の厳白虎が支配者となっていた。

孫策は会稽郡を攻め取ると、会稽太守を自称し、袁術から独立する機会をうかがった。

袁術は、予言書に「代漢者当塗高」(漢朝に代わる者は当塗高なり)という句があるのを知ると、これを「袁術が皇帝になる」との予言だと信じた。

塗とは道路のことで、袁術の字(あざな)は公路だった。
しかも袁術の術は、真ん中を抜くと「行」になり、これも道路と関係が深い文字だ。

彼は古文書を調べて袁家の始祖が「轅濤塗」だと知り、確信を深めた。

袁術は建安2年(197年)になると、正式に天子(皇帝)を自称した。

これを知った孫策は、良い機会と見て袁術に絶交状を送り、完全に独立した。

なお一説では、孫堅が入手した玉璽を、息子の孫策が袁術から兵や軍資金を借りる時に譲ったという。

玉璽を得た袁術が即位に踏み切ったのかもしれない。

余談になるが、「代漢者当塗高」の予言は後漢朝の始めからあり、光武帝(後漢の初代皇帝)は公孫述への手紙において、「姓が当塗、名が高の人物だ」と解釈している。

李傕・郭汜・張済の3人は長安を支配するようになったが、献帝を奪還しようとして、195年11月に洛陽に向かう献帝の一行を襲った。
だが献帝をとり逃がした。

その後に張済は、196年に兵を率いて荊州に姿を現わした。

そして穣城のあたりで戦死し、甥の張繡(ちょうしゅう)が後を継いだ。

張繡の軍が淯水(いくすい)の辺りに現れたので、曹操は討伐しようとした。

ところが張繡は降伏を申し出たので、曹操は受け入れた。
これが197年1月で、曹操は42歳だった。

この時期は戦乱で秩序が崩壊しており、農民が耕作しても収穫期になると賊や軍閥が現れて奪ってしまった。

このため人口が激減し、耕作放棄地も多かった。

そこで曹操は196年に、「屯田兵の制度」を採用した。
これは武装した兵たちに耕作させて、掠奪者を近づけない政策である。

これが成功し、(曹操の本拠地である)許都の近くだけでも百万石の収穫があった。

張繡の軍が曹操の領地に現れたのは飢餓のためで、曹操の下にいれば食うに困らないと思って張繡は降伏したのだ。

ところが、ここで事件が起きた。
亡くなった張済の妻・鄒氏は張繡軍に同行していたのだが、彼女が絶世の美人と知った曹操は呼び寄せて、情欲のままに妾にした。

これを知った張繡は激怒し、奇襲して曹操を殺す計画を立てた。

張繡の腹心に胡車児がいた。胡車児は異相の外国人で、胡とは辺境の外国人を意味する字だ。

張繡は胡車児に、曹操の警固をする典韋の相手を任せた。
曹操を奇襲する直前に、胡車児は典韋を騙して武器を奪った。

張繡軍が曹操の軍営を奇襲すると、曹操軍は大混乱になり逃げた。
典韋は戦死し、曹操の長男・曹昂(そうこう)と甥の曹安民も戦死した。

曹操は、曹昂らに助けられて逃げのびた。

ことあと張繡は、荊州牧の劉表を頼ることにした。

劉表は袁紹と同盟しており、曹操とは敵対関係にあった。

張繡の叔父・張済は、劉表の領地で掠奪しようとして戦死したから、本来であれば張繡と劉表は仇の関係だ。

だが劉表は張済が戦死した時、「張済は窮乏してこの地に来た。それなのに私は迎えに行かず失礼した。彼と戦ったのは私の意思ではなかった」と言った。

これを知った張繡は、思い切って劉表を頼ったのである。

亡くなった曹昂はこのとき20歳だったが、彼は実母を早くに亡くし、曹操の正妻の丁氏に育てられていた。

丁氏は子供が生まれず、曹昂を実の子のように可愛がっていた。

曹操が浮気して敗戦し、曹昂を死なせたと知った丁氏は、怒りと嘆きから泣き続け、夫と口をきこうとしなかった。
これを見た曹操は、丁氏を実家へ帰した。

この後に曹操は一度、丁氏の家を訪ねたが完全に無視された。
そこで縁を切り、卞氏(べんし)を妾から妻に格上げした。

曹操は人妻が好きだったらしく、何進の息子の妻だった尹氏も妾にしている。

ちなみに尹氏は何晏の母である。
何晏は曹操の娘を妻にしたから、ややこしい。

曹操は、秦宜禄(しんぎろく)の妻も妾にした。

曹操の子・曹丕も、袁紹の息子・袁煕の妻・甄氏(しんし) を妾にし、のちに甄氏は魏朝の皇后となった。

三国志の主役たちは皆が人妻好きで、劉備は劉瑁(りゅうまい、劉焉の三男) の妻・呉氏を皇后にした。

孫権も、陸尚の妻・徐氏を妾にしている。

曹操は、兗州と豫州を支配するようになったが、袁紹の勢力や支配地の広さには到底及ばなかった。

この時期の袁紹は、一時は和解した隣国・幽州を支配する公孫瓚と、再び対立していた。

公孫瓚は、幽州刺史の地位を劉虞(りゅうぐ)から奪ったのだが、袁紹は公孫瓚に殺された劉虞の子や部下を援助して公孫瓚を倒そうとした。

他方で、袁術と呂布は、袁術の息子と呂布の娘を結婚させて同盟を結ぼうとした。

曹操はこの2人が結びつくと大勢力になると危惧し、徐州で呂布に仕えている陳珪・陳登の父子に縁談を壊すよう依頼した。

陳珪は呂布に、「袁術は皇帝を僭称する逆賊です」と説いて、袁術が送ってきた使者の首を刎ねさせた。

これに怒った袁術は呂布を攻めたが、呂布は袁術軍の司令官を説得して敗走させた。
これが197年5~6月にかけての事だった。

197年9月に曹操は、出兵して袁術を討伐したが、袁術軍は戦わずに淮水を渡って逃げた。

ところが逃げた先は大飢饉の最中で、袁術軍は半減した。

袁術は、皇帝を名乗ったことで、半年余りでここまで落ちぶれた。
これは配下だった孫策の独立も影響していた。

曹操はこの袁術討伐の際に、淮水の辺りで数千人の侠客を従える許褚を配下にした。

許褚は一種の自警団を率いていたようだが、曹操に会って服従を誓った。

曹操は大喜びし、「お前は私の樊噌だ!」と言った。

樊噌とは、劉邦に仕えた有名なボディガードである。許褚は立派な体格をしていた。
曹操は戦死した典韋に代わる者が現れたと喜んだ。

曹操は袁術を攻めた後、今度は197年末に西にいる張繡を攻めた。

張繡は劉表の配下となっていたので、曹操は劉表軍とも戦うことになり、かなりの戦果をあげたが張繡を討ち取れなかった。

(以上は2025年10月15~20日に作成)


BACK【中国史 三国時代】 目次に戻る

目次【中国史】 トップページに行く

目次【世界史の勉強】 トップページに行く

home【サイトのトップページ】に行く