タイトル199~200年の中国情勢
公孫瓚と袁術の敗死、官渡の戦い

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

袁紹に攻められた幽州の公孫瓚は、199年3月に敗北して自害した。

どのように公孫瓚は敗北し滅亡したのか。

公孫瓚は性格に冷酷なところがあり、彼の部将が籠城して支援を求めた時、部下たちが集まる前でこう語った。

「救援軍を出す余裕はあるが、出さない。
すぐに救援が来ると思った将は、それをあてにしてしっかり守らないからだ。」

結果、救援を求めた部将は戦死した。

上の出来事があったので袁紹軍が攻めて来た時、公孫瓚の将軍たちは援軍が来ないと思って、あっさり降伏してしまった。

それで次々と城が落ち、公孫瓚は自分の居城である易京に追いつめられた。

公孫瓚は、息子の公孫続を黒山賊を率いる張燕の所に派遣し、援軍を求めた。

張燕の軍は、かつて常山郡で呂布も加わった袁紹軍と戦い、引き分けたほどの戦闘力がある。

張燕は10万の兵を率いて出陣した。

公孫瓚は、張燕軍が到着したらノロシを上げて合図し、公孫瓚も城内から出撃して、袁紹軍を挟撃する計画を立て、それを伝える密書を張燕に送った。

ところがこの密使が袁紹軍に捕まり、袁紹は張燕軍が来る前にノロシを上げた。

公孫瓚は「張燕軍が来た」と思って勇んで出撃したが、待ち構える袁紹軍にやられて大敗北した。

公孫瓚は城内に逃げ戻ったが、袁紹は地下道を掘らせて城内に攻め込み、易京城を陥した。

落城のとき、公孫瓚は妻など一族の女たちをすべて殺してから、自殺した。

この少し前、徐州を支配していた呂布は、曹操に敗れて198年12月に処刑された。
その後、曹操は車冑を徐州刺史に任命した。

呂布討伐後に曹操は、配下の劉備を左将軍に任命した。
これは九卿と同格の軍職であり、大臣に匹敵する重職である。

曹操は劉備を特別に扱い、重職に就けるだけでなく、同じ駕籠に乗る、常に同席させるなど、身辺から放さなかった。

「どうやら警戒されているぞ」と劉備は感付いた。

199年の4月、曹操の部将・曹仁が、袁紹の傘下に入った射犬城(せきけんじょう)を攻め降した。

その際に捕まえた中に、魏种がいた。
この男は曹操の元部下で、5年前に兗州で陳宮たちが呂布を招いて曹操に謀反した時、それに加わった者だ。

皆は曹操が魏种を処刑すると思った。

だが曹操は、「魏种は釈放する。その才を惜しむからだ」と言って赦し、魏种を河内郡太守に任命した。

このように曹操は才能ある者を重視したので、劉備を警戒しつつも特別扱いした。

劉備が曹操から特別に扱われ、同じ駕籠に乗ったりしているのを見た董承は、「曹操暗殺計画」に劉備を誘った。

「曹操暗殺計画」は、首謀者は献帝である。

献帝は18歳となり、権力者の操り人形で居続ける自分が心底から嫌になった。

そこで側近の董承に、「逆臣の曹操を討て!」という内容の密詔(密書)を与えた。

董承は献帝の祖母・董太后の甥で、車騎将軍だった。

董承は同志を探し、長水校尉の种輯(ちゅうしゅう)や、将軍の呉子蘭や王服を誘った。

そして曹操を殺せる者として、いつも近くにいる劉備に目を付けて誘ったのである。

誘われた劉備は暗殺計画に加わった。

ちょうどこの頃、袁術は皇帝を名乗ったことで人気を失い、衰退し続けていた。

行き詰った袁術は、これまでライバルとして敵対してきた袁紹に手紙を出し、「袁氏が皇帝になることは占いや予言から明らかだが、私ではなくあなたが皇帝になるべきです」と伝えた。

(※袁術は予言書にハマっていた。また当時の人々は占いを深く信じる者が多かった。)

袁術は、袁紹の下に自軍を連れて合流したいと申し出た。

袁紹はこれを許し、青州を治める息子の袁譚に迎え入れるよう命じた。

こうして袁術は、今いる揚州から北上することになったが、曹操は劉備にこれを阻止するよう命じた。

それで劉備は(揚州と青州の間にある)徐州に向かった。

(※ここで著者の陳舜臣氏は、独自の解釈を入れて、曹操が劉備に対し「わざと私に謀反して袁紹の所に走り、私のスパイとして働いてくれ」と頼んだと描いている。

それなりに面白い所のある解釈なので、その解釈を含めてここから書く。)

正史とは違う所があるので、ご注意いただきたい。)

曹操は徐州に赴く劉備に対し、2人きりの密談でこう話した。

「徐州に行ったら、私に謀反して北上してくる袁術と組んでくれ。

そしたら私は徐州に討伐軍を送るが、それと戦った上で、袁紹の所に走ってほしい。

こうすれば袁紹も君を疑わないはずだ。

私はこれから強敵の袁紹と戦うので、君はスパイとして働いてくれ。」

劉備は、曹操と協力して自らの力をつけることを選び、曹操の頼みを引き受けた。
そして曹操暗殺計画を練る董承たちは裏切ることにした。

傀儡の皇帝である献帝に味方しても力は手に入らない、それよりも曹操に付いたほうが良いと、劉備は判断した。

こうして劉備は徐州に行ったが、着いて間もなく「袁術が死んだ」との報せがあった。

袁術は拠点にしていた寿春から北上を始めたが、40~50km離れた江亭という場所で199年6月に血を吐いて病死した。

劉備は徐州で曹操に謀反する直前に、腹心の関羽にこう話したと、陳舜臣氏は推理して描いている。

「天下はこれから曹操と袁紹の決戦になるが、私は袁紹に賭けようと思う。
だが曹操が勝つかもしれない。だから私たちは二手に別れよう。

私は袁紹、お前は曹操だ。
どうせ一時の宿で、私たちはまた一緒になる。こうすれば、どちらが勝っても命乞いができるではないか。」

劉備は、曹操が任命した徐州刺史の車冑を急襲して殺し、徐州を力ずくで奪った。

曹操は劉岱と王忠に兵を授けて討伐させたが、劉備軍に歯が立たなかった。

こうして建安4年(199年)は暮れた。

ちなみにこの劉岱は、反董卓連合軍に参加した兗州刺史の劉岱とは別人である。

中国では同姓同名が多く、区別するため字を付けるが、劉岱は2人共に字が公山なのでさらにややこしい。

年が明け200年に入ると、曹操は自ら劉備を討とうとしたが、幕僚たちは「今あなたが徐州を攻めたら、(劉備が従属した)袁紹はあなたの背後を襲うでしょう」と反対した。

だが幕僚のうち郭嘉は、「袁紹はぐずな性格で、すぐに行動は起こしません。今のうちに劉備を討つべきです」と説いた。

郭嘉は以前は袁紹に仕えており、袁紹の性格をよく知っていた。
曹操はうなずいて賛同し、徐州へ出陣した。

(これは陳舜臣氏の解釈だが)曹操は、劉備と密約があり劉備との戦争はなれ合いだから、もし袁紹が攻めてきたらすぐに引き返して迎え撃つつもりだった。

一方、袁紹の陣営では、曹操の徐州出兵を知った時、田豊が出撃するよう説いた。

田豊は「曹操の背後を襲えば必ず勝てます」と力説した。

だが袁紹は、「私の赤ん坊の子が病気になっているし、公孫瓚を片付けたばかりだし、今度はやめておく」と言って、出兵しなかった。

この少し前、曹操と何度も戦ってきた張繡は、今は劉表に従属していたが、参謀の賈詡の意見を採用して、曹操に帰順を申し入れた。

曹操は張繡との戦いで長男の曹昂や典韋を失っていたが、それにこだわらず張繡を喜んで受け入れた。

200年1月に曹操が劉備討伐に出陣した時、張繡はすでに揚武将軍に任命され、賈詡は執金吾(許都の警視総監)になっていた。

曹操が攻めてくると、劉備は戦わずに袁紹の治める冀州へと逃げた。

下邳城を守っていた関羽も、抵抗せずに降伏した。

こうして曹操は、短期で徐州を奪回し、すぐに許都に帰還した。

曹操が劉備を徐州に派遣した時のことで、こんな話が『魏志武帝紀』に書いてある。

劉備が許都から徐州に向けて出発した直後に、曹操は家臣から「劉備は野に放ってはならない男です」と忠告された。
それで命令を取り消そうと劉備の後を追わせたが、間に合わなかった、と。

だが一度決定したことを、すぐに変更するなど曹操らしくない。

それに剛直の関羽が、簡単に降伏して下邳城を明け渡すのもおかしい。

こう考えると、曹操と劉備が気脈を通じていたと思えてならないのだ。

なお、劉備が徐州を捨てて袁紹の所に逃げた時、劉備の妻が置いていかれて曹操軍に捕まった。

この女性は、それまでにも劉備に見捨てられた事があり、2度も呂布に捕まっている。

史書は彼女の姓名を伝えていない。

のちに劉備の後を継いだ劉禅は、母親は甘氏である。
甘氏は始めは妾だったが、劉備が荊州にいた頃に妻となったらしい。

劉備は袁紹の所に身を寄せると、(これも陳氏の解釈だが)献帝の密詔(曹操暗殺計画)を公表し、「私が曹操に謀反したのは勅命に従ったことだ」と告白した。

これが許都にも伝わり、董承、种輯、王服たちは三族(親戚)ごと皆殺しになった。

献帝が「逆臣の曹操を討て!」と密勅で命じたことを知った袁紹は、曹操攻めを部下たちに提起した。

これに対し田豊は、こう説いた。

「曹操は徐州から許都に戻りました。いま攻めるのは良くありません。

それよりも献帝の密勅が出たことで、曹操陣営は動揺しています。
ですから奇兵戦(ゲリラ戦)を用いて疲れさせれば、3年のうちに我々が座していても曹操に勝つことができます。」

だが袁紹は、「皇帝の密詔が出たのに奇兵戦しか用いなければ、我々は物笑いの種になる」と言ってしりぞけた。

曹操と密かに結ぶ劉備は、田豊の優れた策が採用されるとマズイと思った。

そしてもしゲリラ戦が採用されたら、自分が司令官を買って出て、前線でサボタージュしようと考えた。

袁紹は、堂々と出陣して曹操軍と対決することに決めた。

出陣を控えた袁紹に、劉備は囁いた。
「田豊はこの遠征に反対して回るでしょう。士気のそがれる恐れがあります。」

こうしては田豊は監禁されてしまった。

出発した袁紹軍の最初の目標は、東郡太守・劉延の守る白馬城だった。

袁紹は白馬城攻めの大将に顔良を指名した。

参謀の沮授は、「顔良は勇猛ですが視野は狭く、こらえ性がありません」と言って、この人選に反対したが、袁紹は聞き入れなかった。

劉備は、出発する顔良にこう囁いた。

「曹操陣営には、私の義弟の関羽がいます。

関羽は曹操から2万の軍勢を授けられていますが、我がほうに寝返ると申してきました。

戦場で会われましたら、彼の帰順を受け入れて下さいませ。
これは極秘でお願いします。」

単純な顔良は、すっかり騙されてしまった。

劉備はこの事を、曹操に密書で伝えた。

白馬城に攻め寄せて関羽軍と出会った顔良は、関羽が先頭を切って向かってくるのを見て、関羽が投降するのだと思った。

顔良が関羽に近づいて対面したところ、関羽はいきなり斬りつけて顔良を殺した。
大将を討ち取られた袁紹軍は大崩れになり、敗走した。

関羽は曹操軍の大勝利に貢献した後、曹操に「劉備のもとへ帰らせて下さい」と願い出た。

(※ここまで書いてきた曹操と劉備に密約があったという解釈は、なかなか面白いのだが、ここで辻褄が合わなくなる。

あえて劉備と別れた関羽が、まだ袁紹対曹操の決着がついていないのに、なぜ劉備の所に戻るのか。)

曹操は劉備の所に向かう関羽に、「君がそのまま袁紹の所に行けば、疑り深い袁紹は私が送り込んだスパイと思うかもしれない。だから私が出す追手をふり切る形で逃げていけ」と指示した。

そして関羽が出発すると追手を出したが、曹操は追手に「関羽を殺してはならぬ。とり逃がしてもいいが殺すことはならぬ」と命じた。

関羽は劉備の妻と共に、無事に劉備の所にたどり着いた。

袁紹は3人の息子がいて、前妻との間に袁譚と袁煕の2人をもうけ、後妻の劉氏との間に袁尚をもうけていた。

この頃になると、長男の袁譚と、母親の違う三男の袁尚が、袁紹の後継者争いを始めていた。

幕僚の沮授は、袁紹軍内がこの後継者争い・派閥争いで分裂していることに悲観し、「病気なので冀州に帰らせて下さい」と袁紹に願い出た。

袁紹は帰国を許さず、「沮授は軍中で静養するように。郭図の軍に預ける」と命じた。

劉備は、袁紹軍内のスパイとして、入手した機密情報を曹操に伝えていたが、袁紹の命令で豫州・汝南郡に派遣された。

そのため袁紹軍の重要情報を曹操は入手しにくくなった。

劉備の汝南行きは、曹操領の汝南郡で賊徒として暴れている元黄巾軍の劉辟を支援するためだった。
劉辟は曹操に従っていたが、袁紹側に寝返ったので、劉備が加勢しに行ったのだ。

曹操と密約する劉備は戦いの手を抜いたので、曹操は攪乱されずにすんだ。

曹操は、袁紹の参謀の1人だった許攸が投降してきた時に、袁紹軍は烏巣という所に軍糧を保管しており、そこの警備が手薄であると聞いた。

これが200年10月のことだった。

この機密情報を得た曹操は、ただちに自ら5千の兵を率いて烏巣を奇襲し、軍糧に放火した。

烏巣の守備兵は1万を超えていたが、守将の淳于瓊はアル中で酒ばかり飲み、兵達の士気は低かった。

烏巣の守備軍は大混乱に陥った。

烏巣が攻撃されたと知った袁紹は、ただちに緊急会議を開いた。

郭図は、「烏巣は放っておいて、曹操のいなくなった本陣を攻めましょう」と説いた。

張郃と高覧は、「曹操の本陣は守りを固めているはずです。全軍をあげて烏巣を救うべきです。烏巣が落ちたら我が軍の士気はガタ落ちします。」と説いた。

袁紹は彼らしい中途半端な決定を下して、軍を2つに分けて両方行わせた。

袁紹の決断が最悪だったのは、烏巣の救出を熱心に主張した張郃と高覧に、曹操本陣攻撃を指揮させたことだ。

この2人は「曹操本陣の守りは固い」と説いていたので、もし簡単に攻め落とせたら判断ミスをさらすことになる。
だからどうしても本気が出ない。

この無神経な人事は、いかにも名門の御曹司らしいものだ。

袁紹軍が烏巣に着いた時、曹操軍はすでに逃げていた。

これを知った郭図は、「張郃は曹操に通じています。その証拠に曹操軍のいない烏巣に全軍を投入しようとしました」と袁紹に訴えた。

袁紹は張郃を疑い、「取り調べたいから本陣に戻ってこい」と命じた。

張郃が困っていたところ、同僚の高覧が「主君が疑い深いと不安が絶えませんね。このあたりで人材を愛すると評判の曹操に鞍替えしましょう」と言った。

2人は曹操軍に投降した。

曹操は張郃と高覧の2将軍が投降してくると、その日のうちに袁紹の本陣を攻撃した。

袁紹たちはすっかり油断しており、本陣にいた10万人のうち7~8万人が討ち取られたという。

袁紹とその息子・袁譚は、鎧を身につける暇もなく、親衛隊に守られて退却した。

袁紹は黄河を背にして本陣を作っており、逃げるには黄河を渡らねばならず、それが大損害を出すことになった。

沮授は逃げ遅れて曹操軍に捕まり、曹操は助命しようとしたが、沮授は自ら死刑を望み処刑された。

(以上は2025年10月23~26日に作成)


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