孫策の若死、孫権が後を継ぐ(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
孫策は若くしてその武力で台頭し、揚州を切り従えたが、乱暴な性格で人殺しを多くした。
揚州・呉郡太守の許貢も、孫第に殺された1人である。
許貢は、許の都(許昌)にいる献帝に上奏文を送り、「孫策は驍雄の者で、放っておくと世の患いとなります。許都に呼んでそこに釘付けすべきです」と伝えようとした。
この手紙が孫策の部下の手に渡り、知らされて怒った孫策は許貢を殺した。
かつて孫策が仕えた袁術は199年6月に病死したが、袁術の遺族たちは盧江太守の劉勲を頼った。
孫策は劉勲を攻めて、敗れた劉勲は曹操を頼っていったが、袁術の遺族たちは孫策軍に捕まった。
捕まった袁術の娘は、孫策の弟・孫権の妾にさせられた。
孫策が揚州でメキメキと力をつけるのを見た曹操は、懐柔しようと婚姻策に出た。
すなわち曹操は、自分の姪を孫匡(孫策の末弟)の妻にして、息子・曹彰の妻に孫賁(孫策の伯父)の娘をもらった。
それだけでなく曹操は、孫策を討逆将軍に任命し、呉候に封じた。
その一方で曹操は、自分の息のかかった徐州・広陵太守の陳登に、先に孫策に討伐された厳白虎の残党と共同して暴れさせた。
(※広陵郡は揚州と接する地である)
200年、孫策に殺された許貢の息子は、復讐のため孫策の命を狙った。
そして孫策が狩猟に出て家臣と離れたスキに、毒矢で射殺した。
このとき孫策はまだ26歳だった。
孫策が死んだ時、孫策を支えていた2本の柱である重臣の張昭と周瑜は、即座に弟の孫権が後を継ぐのを支持した。
こうして18歳の孫権が後継者となった。
はじめは袁術に仕え、袁術を見限ってからは孫策に仕えていた魯粛は、孫策が死ぬと故郷に帰ろうとした。
これを親友の周瑜が止めて、孫権に仕えさせた。
孫策が死んだと聞いた曹操は、高官たちを呼んで会議し、「北の袁紹と南の孫権、どちらを先に倒すべきか」と問うた。
このとき御史の張紘は、孫権攻めに反対した。
張紘は2年前に孫策の使者となって許都に来て貢ぎ物をささげたが、曹操は彼を気に入り許都に留めていた。
曹操は密かに、孫堅の弟の中で一番年下の孫輔に対し、抱き込み工作を図っていた。
孫輔は、孫策とあまり年の差がなくてまだ若かったが、甥っ子の孫策に命令される状態に不満を持っていた。
孫策が死ぬと曹操は、「10代の若者の孫権に国を任せず、君が揚州を取ったらどうか。そのときは力になろう」と孫輔に持ちかけた。
孫輔は誘いに乗り、「軍を派遣してほしい」と曹操に密書を出したが、これが孫権にバレた。
すぐに孫輔は東方の辺境に送られ幽閉された。
そして孫輔の側近たち20数人は処刑された。
迅速な孫輔の排除を見た曹操は、孫権はあなどれないと判断し、孫権を討虜将軍に任命して、張紘も返還した。
(以上は2025年10月26日に作成)