201~207年の中国情勢(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
200年に曹操は、攻めてきた袁紹軍と戦争し、官渡の戦いで大勝した。
201年になると曹操は攻めに転じて、4月に倉亭にいた袁紹軍を破った。
曹操は201年9月に許都(曹操の本拠地)に戻ると、今度は袁紹の客将となって汝南郡で暴れている劉備を攻めた。
攻められた劉備は、荊州を治める劉表のところへ逃げた。
202年5月に袁紹は、喀血して病死した。
202年に南匈奴がいる平陽城は、曹操の部将・鍾繇に攻囲された。
南匈奴たちはこの城を占拠して暮らしていた。
彼らの王(単于)のオフラ(於夫羅)は195年に亡くなり、弟の呼廚泉が後を継いでいた。オフラの息子・豹は、左賢王(副王)をしていた。
平陽は洛陽からそれほど遠くなく、そこに住んでいた彼らは塞外の蛮族というよりも、中原の諸侯の一国と見たほうがよい。
平陽城の彼らは独立勢力だが、地理的になんとなく袁紹に従っていた。
202年5月に袁紹が病死すると、その息子の袁尚は、郭援や高幹に河東の曹操陣営を討つよう命じたが、平陽城の呼廚泉にも河東出兵を命じた。
それで曹操は南匈奴の討伐を決め、鍾繇が平陽城を囲んだのである。
袁尚は、平陽城を助けるため郭援を派遣したが、郭援は鍾繇軍に加勢していた龐徳に討ち取られた。
鍾繇にとって郭援は甥にあたり、鍾繇は郭援の首級を見ると泣いた。
それを見た龐徳は「許して下さい」と詫びたが、鍾繇は「詫びることはない。私の甥だが国賊だからな」と言った。
平陽城の呼廚泉らは降伏し、曹操に許された。
亡くなった袁紹には3人の息子がいて、上の2人(袁譚と袁煕)は先妻の子で、末子の袁尚は後妻・劉氏の子であった。
劉氏は袁紹がまだ生きている時に、我が子の袁尚に家を継がせたかったので、袁尚派の者を増やそうと運動した。
袁紹は、「息子たちに1州ずつ与えて才能を試そう」と考え、長男・譚を青州刺史に、次男・煕を幽州刺史にした。
だが并州刺史には甥の高幹を任命し、三男の袁尚は手元(袁紹の治める冀州)に留めた。
これを見た人々は袁尚を後継者にするのだと思ったが、袁紹は彼らしい優柔不断さで後継者を決めずに亡くなった。
袁紹が亡くなった時、その場に居たのは袁尚だけで、袁尚は「先君の遺命だ」と言って自分が後継者と宣言した。
長男の袁譚は仕方なく「車騎将軍」を名乗った。
袁紹の死後にゴタゴタしているのを見た曹操は、202年9月に袁家の領土を奪うため出陣し、(冀州の南端にある)黎陽に陣を張った。
これに対し、袁譚が兵を率いて黎陽に行き曹操軍と対峙した。
袁家の本拠地である鄴の都(鄴城)は、黎陽から北70kmの所にある。
袁譚は、鄴にいる袁尚に援軍を求めた。
ところが袁尚の参謀をする審配は、「兵を送ってはいけません。放っておけば曹操があなたのライバルである袁譚を討ってくれます」と助言した。
袁尚はほんの少ししか兵を送らず、激怒した袁譚は袁尚が自分のところに派遣していた参謀兼監視役の逢紀を処刑した。
逢紀処刑の報せに仰天した審配は、袁尚にこう言った。
「このままでは袁譚が曹操と結んで我々を攻めるかもしれません。
一刻も早く大軍を率いて黎陽に行き、袁譚と共に曹操軍と対峙すべきです。
鄴城は私が守りますから。」
袁尚軍が袁譚軍に合流し、曹操軍と対峙している間に、年が明けて203年に入った。
203年2月に曹操軍は袁兄弟軍を破って、袁兄弟は鄴城へと退却した。
曹操軍は鄴まで迫ったが、近くを荒らし食糧を略奪しただけで黎陽まで下がった。
曹操の部下たちは「一気に鄴を攻め落としましょう」と言ったが、曹操は「やつらの自滅に任せよう」と言い、総退却を命じた。
曹操は「荊州の劉表を先に片付ける」と宣言し、許都に引き上げた。これが203年5月だった。
曹操は、203年8月に劉表を討つため許都を出発した。
曹操の予想した通りに、曹操軍がいなくなると袁譚と袁尚の争いが再開した。
袁譚は袁尚に奇襲をかけたが、敗れて(北東にある冀州・勃海郡の)南皮に逃れた。
袁譚に失望したのか、袁譚の領地である青州では、諸将たちが次々と反旗をひるがえした。
袁尚が弱った袁譚を攻め立てると、袁譚は青州西部の平原城に逃げ込んだ。
ここで袁譚は曹操に援軍を求めることにし、側近の辛毗を使者に立てた。
曹操は劉表を討つべく西平に陣を構えていたが、袁兄弟の動向にも注目していた。
辛毗から話をきいた曹操は、兵を返して再び黎陽に陣を布いたが、これが203年10月のことであった。
曹操軍が現れると、袁尚は慌てて平原城の包囲を解き、鄴城に帰った。
曹操は袁譚を救出したので、いったん引き上げた。
年が明けて204年の2月、袁尚は大軍を率いて再び袁譚のいる平原城を攻めた。
これを聞いた曹操は出陣し、今度は一直線に鄴城に攻め寄せた。
この頃、黒山賊を率いる軍閥の張燕は、曹操と袁尚の双方から味方になるよう誘われた。
長く黒山衆を率いてきた張燕だが、老いを感じ始め独立勢力で居続けるのに疲れていたので、曹操に帰順した。
曹操は、204年5月に鄴城の包囲を完成させ、水攻めを始めた。
孤立した鄴城は食糧が尽き、住民の半ばが餓死する惨状となった。
平原城を包囲していた袁尚軍が救援にやってくると、鄴城を守っていた審配は城門を開いて出撃し、曹操軍を挟撃しようとした。
だが城兵たちは飢えで痩せ細っていて、まともに動けず次々と曹操軍にやられたので、審配は城内に引き返した。
袁尚軍も敗れて、曲璋に逃げ込んだ。
袁尚は降伏を申し出たが、曹操は無視した。
追いつめられた袁尚は変装して逃亡した。
鄴城を守る審配は、自分と仲が悪く袁譚派の代表格である辛評と辛毗を憎んでいたので、鄴城内にいる辛氏の一族を皆殺しにした。
殺された辛一族は80人と言われる。
この虐殺を見た審配の兄の子・審栄は、怒りにふるえた。
というのは審栄は、辛一族の娘と恋仲だったからだ。
審栄は城門を守る将の1人だったが、怒りのあまり曹操軍に内通し、城門を開けると約束した。
こうして曹操軍は城内に突入し、審配を捕えて処刑した。これが204年8月だった。
なおこの時、袁煕の妻・甄洛も捕虜となった。
彼女は絶世の美女として有名で、この時22歳だったが、19歳の曹丕の妾にされた。
袁尚は中山城に逃げ込んだが、袁譚軍が攻めてきた。
それで袁尚は中山城を出て、兄・袁煕のいる故安城を目指した。
ここで袁譚は、荊州の劉表に密使を送り、「共に曹操を討とう」と同盟を申し込んだ。
だが劉表は断った。
そのため袁譚は南皮城まで後退した。
曹操が南皮城を攻めたのは205年1月だったが、袁譚は死を決して戦ったので曹操軍は苦戦した。
曹操は退却も考えたが、従弟の曹純が「ここまで来たのですから諦めずに攻めましょう。見たところ袁譚の強さは自暴自棄の強さです。そんなに長続きしないでしょう」と助言した。
それで曹操軍は攻め続けたが、やがて袁譚軍は疲れから崩れて、袁譚は戦死した。
こうして冀州は曹操の領土となった。
曹操は冀州の主人になると、この地で行われていた厚葬と仇討ちの風習を厳重に禁じた。
一方、袁尚は袁熙のいる故安城(幽州・涿郡にある)に逃げ込んだが、袁煕の部将である焦触や張南が謀反したので、袁尚と袁煕は城を脱出した。
2人は烏桓族を頼っていった。
烏桓は、烏丸とも書くが、ツングース族の人々で、過去に烏桓山で暮らしたことがあるのでそう呼ばれていた。
烏桓たちの住む地域は漢王朝の区分では幽州に入るが、彼らは3つのグループに分かれていた。
丘力居の率いる遼西郡に住むグループ、難楼の幸いる上谷郡に住むグループ、蘇僕延の率いる遼東郡のグループ、の3つである。
他にも烏延(うえん)の率いる右北平郡に住むグループもいた。
烏桓は、丘力居が死んで蹋頓(とうとん)が遼西グループを継ぐと、蹋頓は武略に優れていたので3つのグループの盟主となった。
蹋頓の台頭は、袁紹と組んだのも大きく影響していた。
烏桓は遊牧民族で戦闘力が高く、袁紹が公孫瓚を倒すのに大きく貢献した。
袁紹は烏桓を手懐けるために、自分の養女を遼西烏桓の族長(蹋頓か?)と結婚させた。
これにより袁家と遼西烏桓は親戚になっていた。
だからこそ袁尚と袁煕は頼ったのである。
袁尚と袁煕が頼ってくる前、丘力居の息子・楼班が成人して、蹋頓から遼西烏桓の首長の座を譲られていた。
袁尚と袁煕が来た時、蹋頓は「袁兄弟を受け入れれば曹操と戦争になります。受け入れてはいけません」と楼班に忠告した。
だが楼班は、「それでは義が立たぬ。我らは袁家と血縁を結んだ。追い出すことは出来ない」と言って、2人を受け入れた。
曹操は鄴城を陥した後、本拠地を許都(許昌)から鄴城に移した。
袁氏の本拠地だった鄴の都は、規模が大きく発展性もあったからである。
遼西の烏桓を頼った袁兄弟について、曹操の幕僚たちは放っておくべきとの意見が多かった。
だが郭嘉は、「袁兄弟が健在だと、旧臣たちが続々と遼西に集まります。しかも遼西の烏桓の騎兵は強さに定評があります。放っておくと危険で、今のうちに攻めるべきです」と説いた。
曹操は郭嘉の意見に賛成し、遼西攻めを決めた。
だがこの討伐は遅れた。高幹の造反があったからだ。
高幹は、袁紹の甥で并州刺史をしていたが、鄴城を曹操が陥すと2ヵ月後に降伏した。
曹操は高幹を并州刺史に留めたのだが、間もなく造反した。
曹操は自ら高幹のいる壷関(こかん)を攻めたが、高幹は逃げて匈奴を頼った。
匈奴(呼廚泉)は高幹の受け入れを拒んだので、高幹は荊州の劉表を頼ることにしたが、206年に荊州に向かう途中で上洛都尉の王琰に斬られた。
烏桓や鮮卑というツングース系の遊牧民たちは、匈奴などのモンゴル系に比べると土地への定着性があった。
その上、この時代は戦乱が続き、烏桓の領土に漢人が逃げて移住したので、漢人の影響で烏桓は定住性がより強まった。
そんなわけで、遼西の烏桓は城壁に囲まれた柳城に住んでいた。
207年の夏、曹操が柳城に攻めてきた時、蹋頓は「私々は(遊牧民族なので)これまで城を守ったことなどない。城を出て迎え撃つべきだ」と説いた。
長老の蹋頓の意見が採用され、烏桓軍は出撃した。
だが大敗して蹋頓は戦死し、烏桓軍と袁兄弟は(遼東郡にある)襄平の公孫康を頼って落ちのびた。これが207年8月である。
公孫康の父・公孫度(こうそんたく)は、遼東の襄平城を本拠とし、その勢力範囲は南にある朝鮮半島や日本の邪馬台国まで及んでいた。
公孫度は、後漢朝が黄巾の乱などで弱体になった時、自立して地方の軍閥になった。
曹操は204年に公孫度の実力を認めて、武威将軍に任命し、永寧郷侯に封じた。
それから間もなく公孫度は死去し、息子の公孫康が後を継いだ。
永寧郷侯の位は、公孫康の弟の公孫恭が継いだ。
公孫康は曹操と戦う気がなかったので、袁煕、袁尚、楼班ら逃げ込んできた者たちを殺して、その首を曹操に送った。
袁家はここに滅びた。
遼西の烏桓軍は、首長の楼班が殺されたので、曹操に降伏した。
曹操軍が鄴城に凱旋したのは207年11月だった。
これは陰暦だから、帰ってきた11月はもう酷寒だった。
この年は日照り続きで水も食糧も乏しく、曹操軍は数千匹の馬を殺して食糧にし、地下水を掘って水を得るという大変な遠征であった。
(2025年10月27~28日に作成)