208年の中国情勢(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
中国では、ただ「河」と言えば黄河のことで、ただ「江」と言えば長江(揚子江)を指す。
長江の岸辺にある漢口は、三国志の時代は夏口と呼ばれていた。
夏口は孫権の領土と劉表の領土の境界にあたり、たえず紛争が起きていたが、劉表の部将の黄祖が駐屯し守っていた。
黄祖は名将で、孫権の父・孫堅と戦って討ち取っている。
彼の部下には海賊あがりの蘇飛や陳就という勇将がいた。
孫権は父の仇として何度も黄祖を攻撃したが、黄祖は撃退し続けていた。
208年の春、劉備は荊州を治める劉表の客将をしていたが、諸葛亮を参謀に迎えていた。
劉備はこれまで主君を次々と変えており、公孫瓚、陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表と、仕官先を変えていた。
彼は47歳になっていた。
同じ春、孫権は再び黄祖を攻めた。
孫権は、このたびは新参者の甘寧に作戦を任せた。
甘寧は益州の出身で最初は劉焉に仕えたが、荊州に移住して黄祖の下で3年働いていた。
だから甘寧は黄祖軍を詳しく知っており、それを見込んで孫権は作戦を任せたのである。
孫権軍は勝利して陳就を討ち取り、黄祖も馮則が討ち取った。
この時期、劉表は重病で病床についており、荊州の政治は劉表の妻・蔡氏の弟である蔡瑁と、劉表の甥の張允が担っていた。
蔡氏は後妻で、劉表は前妻との間に劉琦と劉琮の2人の息子をもうけていた。
蔡氏は、劉琮と自分の姪を結婚させた。
蔡氏と蔡瑁は、劉琮を担いで、劉表の死後に荊州を牛耳るため動いていた。
劉琦は、自分が邪魔者として殺されることを心配し、諸葛亮に相談した。
諸帯亮は「地方に赴任して生きのびなさい」と助言し、劉琦は(荊州の州都である)襄陽を離れることにした。
ちょうど江夏郡太守の黄祖が戦死したばかりなので、その後任を願い出て江夏郡太守として赴任した。
一方、曹操は北方の烏桓を討伐して凱旋したあと、後漢朝の採ってきた三公制を廃止して、前漢朝の制度だった丞相制を復活させた。
三公制は3人の合議政治だが、丞相制は丞相だけに権力が集中する。
要するに曹操は自分に権力を集中させた。
曹操は荊州を攻めることにし、208年7月に大軍を率いて出陣した。
曹操軍が出発してすぐに、劉表が病死した。
劉表の死後、襄陽では首脳会議が開かれたが、客将の劉備は呼ばれなかった。
この会議で、蒯越や傅巽(ふせん、ふそん)は降伏を主張した。
王粲(おうさん)も、「献帝をいただく曹操に恭順したほうがよい」と説いた。
王粲は小柄で醜男だが、後に「建安の七子」に選ばれるほど文才があり、祖父が司空(三公の1つ)をつとめた名門の家柄だった。
普通なら重用されるだろうが、劉表は王粲の容貌が醜いので軽く扱っていた。
会議で曹操に降伏すると決まると、降伏文書を王粲が書いて曹操の所に送られた。
曹操は恭順した劉琮を青州刺史に任命し、王粲らを侯に封じた。
なお劉琮は青州に赴任するよりも朝廷内の職を希望し、諫太夫に任命された。
劉表が亡くなった時、孫呉に仕える魯粛は弔問使として荊州に行くことを願い出た。
南下してくる曹操軍と戦うべきと考えていた魯粛は、弔問使の名目で荊州に行き、劉表の後継者を口説いて反曹操の軍事同盟を結ぶつもりだった。
ところが荊州に入り江陵まで来た時に、劉琮の降伏を聞いた。
そこで魯粛は、北から逃げてきた劉備と会見し、劉備を同盟相手にしようと考えた。
そして劉備の側近の諸葛亮を連れて孫権のもとに帰った。
諸葛亮は劉備の全権大使として孫権と会見し、「曹操を討つべきです。曹操は恐れるに足りません」と説いた。
孫呉は小さな土豪の連合体で、会議がよく開かれ、皆が言いたいことを言い合う風習があった。
この時も会議が開かれ、魯粛と周瑜は曹操と戦うべきと言ったが、多くの者は降伏すべきと言った。
孫権は戦うと決断した。
孫呉の軍権を握る周瑜は、艦隊を率いて川を上り、樊口に駐留している劉備に会った。
「どれほどの兵を率いてきましたか」と尋ねる劉備に、周瑜は「3万人」と答え、「あなたは私が曹操軍を破るのを見物していて下さい」と言った。
周瑜はこの時33歳。
彼は長身の美男で、人々から「周郎」(男前の周さん)と呼ばれていた。
周瑜の言葉は自信の現れであり、 「勝利の成果をあなたには渡しません」という意味でもあった。
周瑜と別れたあと劉備は部下たちに、「今度の戦争は無理をせず、孫権に任せておこう」と言った。
一方、荊州の大半を押さえて南下した曹操軍は、孫呉軍と川を挟んで対峙したが、疫病が流行して将兵がバタバタと死んでいた。
周瑜軍の部将・黄蓋は、次の献策を周瑜にした。
「曹操軍は大軍なので奇襲するしかありません。
私が偽装の投降で曹操の軍営に近づき、火攻めをします。
我々は先日に和平か抗戦かをめぐって大激論しました。
その時に私は和平派でしたから、曹操に投降を申し出ても疑われないでしょう。」
周瑜はしばらく考えてから、「やって下さるか、黄蓋どの」と手を握った。
この火計が成功して曹操軍は大混乱になり、呉軍が大勝したのは、よく知られている通りだ。
この「赤壁の戦い」は、周瑜が主役であって、劉備と諸葛亮の影は薄い。
(※『三国志演義』では諸葛亮が大活躍するが、史実ではない)
(2025年10月28日に作成)