タイトル209~210年の中国情勢
孫権と劉備の同盟、周瑜の死

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

208年に赤壁の戦いで大敗した曹操は、鄴の都に帰ると銅雀台という大宮殿の造営を始めた。
これは鄴の都に活気をもたらして敗戦ムードを吹き消す意味もあった。

一方、孫権は赤壁で大勝した勢いに乗って、曹操領で対呉の前線基地である合肥城を包囲した。
『資治通鑑』によると208年12月のことである。

だが張喜が4万の兵を率いて翌年3月に救援に来ると、孫権軍は退却した。

209年7月に曹操は、水軍を率いて合肥城に駐屯し、水軍の訓練を行った。

それだけでなく合肥城の近くに屯田をつくり、駐屯軍が耕作した。

これは孫権に対する示威行動でもあった。

赤壁の戦いで敗れたとき曹操は、荊州のうち江陵城は曹仁や徐晃に守らせて、襄陽城は楽進に守らせた上で退却した。

周瑜が率いる呉軍は、曹仁たちに勝って江陵城を奪うまでほぼ1年を要した。

江陵城を落とした周瑜は、自ら駐留し守ることにした。

呉軍が曹操軍と戦っている間に劉備は、荊州南部の4郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を切り従えていった。

この4郡には、荊州を治めていた劉表の任命した太守がいたのだが、劉備は亡くなった劉表の長男・劉琦を担いで、4郡を支配下に入れた。

劉備は桂陽郡は趙雲に守らせて、残り3郡は諸葛亮に任せた。

劉備はもっと北方の長江沿いにある江陵城を本拠地にしたかったが、そこには周瑜がいるので対岸に陣を構えた。

江陵は長江の北岸にあるが、その南岸は油口という地名だった。
劉備はそこを公安と改名して、駐屯した。

孫呉の重臣である周瑜は、(西にある)益州の征服を構想し、「益州攻略の前に劉備を始末すべきです」と孫権に助言した。

これに対し魯粛は、「劉備を駒として使うべきです」と反論した。

周瑜は劉備を信用しておらず、「あの男の経歴は、常に裏切りと背反のくり返しだ」と説いた。

この頃、劉備が担いでいた劉琦が亡くなった。

さらに劉備の妻・甘氏も亡くなった。

魯粛は劉備を高く評価していたので、孫権の妹を劉備に嫁がせる政略結婚を、孫権に進言した。

この妹は23歳で、札付きのじゃじゃ馬で武術を好み、騎馬や長刀の名手だった。

劉備は48歳なので年齢差はあったが、妹は了承して嫁いだ。209年のことだった。

余談になるが、中国では結婚を祝う風習は唐の時代あたりから始まった。

古代中国では音曲を慎むなど、結婚は悲しむ行事であった。
結婚して子が生まれることは、古い人(老人)が死ぬのとペアを成す現象と見られていたからだ。

漢の時代は悲しむ風習はなくなったが、盛大に祝うことはなく、ささやかに祝ったらしい。

この時期の荊州は、北部の襄陽城は曹操の部将・楽進が駐屯して守っていた。

劉備は関羽を襄陽太守に任命したが、これは名目だけだった。

210年、劉備は妻の里帰りに同行して、孫権のいる京口に行った。

京口行きに諸葛亮は反対し、「抑留される恐れがあります」と忠告したが、劉備は強行した。
孫権と劉備はこの時、初対面した。

江陵城を守る周瑜は、このとき病発していたが、孫権に手紙を出して助言した。

「劉備は梟雄で、長く人の下で働く男ではありません。
彼を呉の地にとどめて、美女や美食を与えて軟弱にすべきです。

劉備を関羽・張飛と離して、さらに関羽と張飛も引き離せば、彼らに戦争で勝てます。

もし彼らに土地を割いて与えれば、天高く飛び孫呉にとって一大事となります。」

だが孫権は、劉備、その妻(孫権の妹)、魯粛に説得されて、荊州北部の呉の領土を劉備に委ねる(貸し与える)ことにした。

これは、劉備の持つ荊州南部の4郡と、孫呉の持つ北部4郡を交換する形をとり、しかも劉備が北部4郡を借りることとした。

劉備がなぜ北部を欲しかったかというと、土地が肥えていて農産物の収穫量が多いのと、交通に便利だったからだ。

孫権としては、曹操領と接する北部に劉備を置いて、緩衝地帯をつくるつもりだった。

劉備夫妻が帰った後、病いをおして周瑜が京口に来た。

周瑜は、「益州攻めをしたい」と孫権に話し、「劉備は討伐すべきです」と改めて説いた。

だが周瑜は江陵に帰る途中、巴丘という所で病死した。35歳だった。

周瑜は死の直前に、孫権へ手紙を書き、「魯粛は忠烈で慎重さも持つので、私の後任にして下さい」と遺言した。

周瑜と魯粛は意見対立することが多かったが、お互いを認め合っていた。
だから周瑜は自分の亡き後を魯粛に託したのである。

(2025年11月7~8日に作成)


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