211年の中国情勢(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
211年3月、曹操は西征を決め、「漢中の張魯を討つ」と宣言した。
経理官の高柔は、「大軍を率いて西に進むと、現地の軍閥である韓遂や馬超は自分たちが討たれると思って連携するかもしれません。まず韓遂たちを宣撫すべきです」と献策した。
だが曹操は却下した。なぜなら本心では益州・漢中郡にいる張魯ではなく、長安の辺りにいる(雍州にいる)韓遂らを討伐するつもりだったからだ。
長安の辺りには、韓遂と馬超の他にも、侯選、程銀、楊秋、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩の8将が割拠しており、彼らは「関中の十部」と称していた。
曹操軍が攻めてくると知ると、関中の十部は高柔の予想通りに連合し、10万の大軍となって潼関に陣を布いた。
潼関は黄河沿いにある、天然の要害である。
曹操は大軍を率いて潼関に向かったが、徐晃と朱霊には別ルートを進ませて、狭撃しようと計画した。
韓遂は、馬超の父・馬騰と義兄弟の誓いを立てていた。
だから馬超にとって韓遂は、義理の叔父にあたる。
このことから韓遂は馬超に対して叔父として上から接したが、2人は実は10歳ほどしか違わず、馬超は不満を抱いていた。
また韓遂は、父親が曹操と同じく174年に官職についた人で同期生として親交があった。
この事から韓遂と曹操も知り合いだった。
曹操と関中十部が停戦して和睦交渉に入った時、 曹操は意図的に韓遂と親しく接した。
すると曹操の狙い通りに、馬超は韓遂を疑いの目で見るようになった。
関中十部のリーダーである韓遂と馬超の関係がギクシャクしたのを見た曹操は、和睦交渉を打ち切って戦争を再開した。
関中軍はまとまりを欠き、大敗した。
この敗北で成宜と李堪は戦死し、馬超と韓遂は涼州に逃げた。
楊秋は雍州の安定郡に逃げたが、曹操軍が追ってきたので降伏した。
楊秋は「私が涼州まで逃げなかったのは、帰順の意思があったからです」と釈明した。
曹操が「帰順する意思があるのに、なぜ逃げた」と問うと、「付き合いでございます」と楊秋は答えたが、曹操は大笑して赦した。
これが211年10月のことで、曹操は翌212年1月に鄴の都に帰着した。
(2025年11月8日に作成)