(『関羽伝』今泉恂之介著から抜粋)
『三国志』は、陳寿(233~297年)が編纂した史書で、質の高さが認められている。
陳寿の父は、蜀の武将だった陳式とされている。
ちなみに三国志の時代は、日本だと卑弥呼が邪馬台国の女王だった時代に当たる。
三国時代を書いたものでは、裴松子(372~451年)が書いた『三国志注釈』も、万人が認める良書である。
他には、『後漢書』と『華陽国史』も参考書と認められている。
関羽の研究をする山西省の郷土史家は、清の時代に書かれた『関帝誌』や『山西通史』や『解州全史』も、参考書に加えている。
なお『三国演義』は、フィクションの小説なので、参考にはならない。
この本に書かれる関羽の姿は、事実2、虚構8くらいだ。
余談だが、関羽は演劇などで、赤い顔で表現されることが多い。
中国では昔から、色によって性格を区別する。
赤は忠勇、黄は猛烈、白は欺瞞、黒は率直、青は妖邪、金は神聖となっている。
このため演劇では、関羽は赤顔、曹操は白顔で決まっている。
山西省の運城市(うんじょうし)は、盆地で、「解池(かいち)」と呼ばれる広大な塩水湖がある。
古来からここで、塩が採られてきた。
関羽は、解池の近くにある常平村(解県下馮村)で生まれた。
解池は塩の田んぼの様で、日照りになると塩ができやすいと思えるが、現地の人は「そうではなく、雨が降ると底から塩が上がってくる」と言う。
雨が降ると塩の鉱床が溶け出すらしい。
ここは乾燥地帯なので、水はどんどん蒸発していく。
昔から権力者たちは、塩を求めて運城盆地のある解州を目指した。
解池を独占して塩を専売すれば、大もうけできる。
塩を扱う商人は「山西商人」と呼ばれ、彼らは権力者と結び巨万の富を手にしてきた。
関羽は、死後に神として崇められる事になったが、商業の神にもなったのは、山西商人が地元出身の関羽をまつったからだろう。
『三国志』は、運城時代の関羽をこう書いている。
「関羽、字(あざな)は雲長。もとの名は長生。
解(運城)の人。家郷に在って罪を犯し、亡命して琢州に奔(はし)る。」
上にある「亡命」とは、亡(失う)、命(戸籍)のことで、戸籍を捨てることである。
地元の伝承によると、関羽は悪徳な塩商人を殺して、故郷を捨てて琢州(琢郡)に逃げた。
山西省の研究者たちは、関羽の生年を「160年が最有力」と述べる。
『関帝誌』にそうあり、他の史料にも符合するものが多いと言う。
160年生まれとすると、黄巾の乱が起きた184年は25歳である。
関羽が殺人して亡命するのは、その後である。
常平村にいた時期の関羽の職業は、鍛冶屋、木こり、豆腐売りなどの説がある。
いずれにせよ下層の出身だが、『春秋左氏伝』を愛読し、文武に優れた若者だった。
地元の史料によると、関羽は177年に17歳で、胡氏(こし)の娘と結婚した。
翌年に長男の関平が生まれた。
『三国演義』では関平は養子だが、実子なのを多くの学者が支持している。
次男の関興も常平村で生まれた。
184年に現れた黄巾の軍勢は、決起時は30万人と推測されており、生活に困って決起した者たちだ。
首領の張角は間もなく死去したが、残党が10年も各地で暴れた。農民の支援があったからだろう。
黄巾の乱の時、常平村も食料や水不足で苦しんでいた。
地元の伝承によると、董卓の養子となった呂布と結んだ塩商品の呂熊(りょゆう)が、井戸水を独占して、水汲みに来る若い女性を次々と強姦した。
これに怒った関羽が、呂熊の豪邸に乗りこんで殺害した。
古い石碑の写しには、「夜に関羽が呂熊邸に入り、一族郎党を誅殺した」とある。
『三国志』に書いてある、「家郷に在って罪を犯し」が殺人なのは、あらゆる研究者が認めている。
殺人したあと関羽は自宅に戻って、父母に話した。
父母は「義の行動」と認めた。
関羽は逃亡することになり、父母は「付いていけば足手まといになる」と言って、井戸に身を投げて死んだ。
関羽は自宅の壁を押し倒して井戸を覆い、逃亡して再び故郷に戻ることはなかった。
山西省の研究者の多くは、この時の関羽は27~28歳だとしている。
妻の胡氏は、長男の関平を連れて実家に戻り、次男の関興は常平村で育ったという。
関興の息子は、関統と関彝(かんい)で、関彝の血筋が残っていったと地元の史料にある。
常平村に取材に行ったところ、関羽の62代目の子孫と名乗る、関新剛がいた。
常平村では、関羽の子孫が長く名士になっている。
故郷を捨てた関羽は、東方に逃げた。
「元は別の姓名だったが、逃亡中に姓名を関羽に変えた」という言い伝えも残っている。
関羽は琢郡(琢州)に落ち着き、そこに住む劉備と張飛に188年に出会った。
3人が出会った時、関羽は29歳、劉備は28歳、173年生まれの張飛は16歳だった。(※かぞえ年である)
年令差から見て、張飛は対等の立場ではなかったはずだ。
もし対等ならばカネ持ちだったのだろう。
劉備たち3人の関係性は、「桃園での結義」が有名だが、あれはフィクションである。
だが彼らが義兄弟のような間柄だったのは間違いない。
なおフィクションではあるが桃園結義では、儀式として牛や馬を殺してその首を飾っている。
非常に血なまぐさい儀式であり、おそらく遊牧民から伝わったものだ。
桃園結義の「同じ日に死ぬことを願う」という誓いは、よく考えてみれば気味が悪い。乱世ならではだろう。
義兄弟という関係も、遊牧民に由来するもので、裏社会の兄弟分の関係にも似ている。
ちなみに中国の裏社会では、関羽は「関三郎」と呼ばれて崇められてきた。
劉備は、中山靖王・劉勝の子孫とされるが、劉勝が生きたのは300年も前で、10世代くらい経過している。だから当てにならない。
実際のところ関羽や張飛は、劉備の血筋ではなく器量にほれていた。
『三国志・関羽伝』には、「劉備、関羽、張飛は同じ床に寝る。親しさは兄弟のようだ。劉備が座って仕事をしていれば、(関羽は)一日中でも脇に立って待つ。」とある。
『三国志』において、関羽の容貌で書かれているのは、立派なヒゲだけである。
ここから「美髯公」(びぜんこう)という呼び名が生まれた。
また『関帝誌』などの史書では、「顔に数個のほくろがあり、鼻に2つのイボがある」と言及している。
これは関羽の強さや神聖を表す記述ではないから、後世に書き加えられたものではなさそうだ。
関羽の武器は、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)だと、『三国演義』では語られている。
だが『三国志』では、顔良を討ち取った時に「刺した」とあり、実際は矛(ほこ)か戟(げき)を使っていた。
劉備たちは出会ってから、武装して決起するが、この時にカネを提供した張世平と蘇双は実在の人とされており、おそらく地主の豪農だろう。
決起した劉備軍は、幽州大守・劉焉の配下になり、琢郡にくる黄巾軍と戦った。
『三国演義』では黄巾軍に対し3戦全勝としているが、実際は2勝1敗だったと研究者は言う。
189年に劉備は、黄巾討伐の戦功で、琢郡の南にある安喜県の尉(じょう、警察署長)に任命された。
手下の関羽や張飛は、警察官といったところだろう。
すぐに事件が起きた。『三国志・劉備伝』にこうある。
ある時、郡の監察官が安喜県の行政を視察に来た。
この役人が賄賂を求めたので、劉備と揉めた。
役人の態度に劉備はキレてしまい、監察官を杖で打ちまくり、職を放棄して琢郡に逃げ帰った。
その後、劉備たちは再び黄巾討伐戦に参加し、その戦功で県の副知事といった職を得た。
(2025年1月3日に作成)