211~213年の中国情勢(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
211年3月に曹操が、「(益州の)漢中郡を支配する張魯を討つ」と宣言した時、益州(蜀)の政治家たちは危機感を高めた。
漢中は益州の入口だからである。
これより前、曹操が大軍を率いて荊州を攻めた208年に、益州牧(益州の長)の劉璋は側近の張松を派遣して、曹操の陣中見舞いの形で外交させた。
だが曹操は張松と会った時、チビでスガメの風采のあがらぬ張松をあなどり軽くあしらった。
曹操が無礼だったのは、荊州を治める劉琮の降伏を受け入れたばかりで、降伏した者たちに会って官爵を与えるのに忙しい事情もあった。
軽く扱われた張松は、曹操を恨んだ。
この先年に張松の兄・張粛が使者として曹操に会った時は、曹操は張粛に広漢太守の官職を与えていた。だから張松の怒りは大きかった。
益州に帰った張松は、「曹操はダメです、関係を断ちましょう。(荊州にいる)劉備のほうが人物が優れているようです」と報告した。
上の事情があったから、曹操が張魯討伐を宣言して西征を始めた211年に、張松は「今こそ劉備殿の力を借りる時です。劉備殿に声をかけて曹操よりも先に漢中を奪ってもらいましょう」と劉璋に説いた。
劉璋は了承し、劉備への使者は張松の推薦する法正に決まった。
法正は出発する前、張松と密談をくり返し、益州の主を劉備にするための策を練った。
2人はすでに劉璋を見限っていた。
法正は、益州の詳細な地図などの重要情報を持参して、劉備に会見した。
そして地図などを劉備に渡しつつ、「蜀をお取り下さい。蜀の宰相である張松殿はあなたが攻めたら必ず内応します。」と伝えた。
劉備はさっそく幕僚を呼んで会議を開いた。
諸葛亮も龐統も「天の与えたもうた好機ですぞ。逃してはなりません。」と言った。
龐統はさらに、「孫呉の動きに気を付けねばなりません。留守の間に攻められないよう、かなりの兵力を荊州に残しておくべきです」と助言した。
諸葛亮も、「関羽、張飛の両将軍には残っていただきましょう。そのほうが劉璋も安心するはずです。」と助言した。
実はこの時期、劉備は孫呉から何度も「共に蜀へ出兵しよう」と誘われていたが、ずっと断わっていた。
劉備は蜀を一人占めする腹づもりだった。
劉備が単独で兵を率いて蜀に出発すると、同盟相手の孫呉は激怒した。
それで直後に劉備の妻・呉夫人(孫権の妹)が、「夫の外征中は実家(呉)に帰らせていただきます」と告げた。
激怒している孫権は、妹を帰国させるための船を派遣した。
呉夫人は帰国のさい、5歳の皇太子・劉禅を連れて出発した。
劉禅は、亡くなった甘夫人が生んだ子で、劉備のただ1人の男子だった。
呉夫人は二度と帰ってこないと思われたので、人質にされると危惧した趙雲が呉夫人の乗る船を追いかけて、劉禅を取り戻した。
この時期に孫権は、揚州・丹陽郡の秣陵に新しい都を造りはじめ、そこを「建業」と改名した。
建業は大都市に発展し、これ以後、中国南部に政権を樹立する者は大抵はこの地を都とした。これが現在の南京である。
さらに孫権は、曹操領の対呉の前線基地である合肥城と建業の間にある、濡須に砦を築いた。
213年1月に、曹操軍の大軍が、孫呉の江西営を攻撃した。
余談になるが、長江はその辺りで大きく曲がり、右岸すなわち南京方面を「江東」と呼び、左岸すなわち濡須方面を「江西」と呼んでいた。
これは現在の江西省のことではない。
3万の曹操軍に急襲された江西営は、守将の公孫陽が曹操軍の部将・許褚に捕まった。
実は許褚の妹はかつて公孫陽の許婚だったが、この妹は仏寺に入って結婚はしなかった。
捕虜となった公孫陽も仏寺に入るのを望み、曹操は許した。
一方、蜀に入った劉備は、張魯を討伐しようとせず、葭萌(かぼう)に駐屯し続けた。
劉備の真の目的は、劉璋のいる成都を攻め落として蜀を乗っ取ることだった。
劉備は龐統の策を採用し、葭萌のすぐ西にある白水関の守将である楊懐と高沛を罠にかけることにした。
(2025年11月8日に作成)