211~214年の中国情勢(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
211年3月に曹操が、「(益州の)漢中郡を支配する張魯を討つ」と宣言した時、益州(蜀)の政治家たちは危機感を高めた。
漢中は益州の入口だからである。
これより前、曹操が大軍を率いて荊州を攻めた208年に、益州牧(益州の長)の劉璋は側近の張松を派遣して、曹操の陣中見舞いの形で外交させた。
だが曹操は張松と会った時、チビでスガメの風采のあがらぬ張松をあなどり軽くあしらった。
曹操が無礼だったのは、荊州を治める劉琮の降伏を受け入れたばかりで、降伏した者たちに会って官爵を与えるのに忙しい事情もあった。
軽く扱われた張松は、曹操を恨んだ。
この先年に張松の兄・張粛が使者として曹操に会った時は、曹操は張粛に広漢太守の官職を与えていた。だから張松の怒りは大きかった。
益州に帰った張松は、「曹操はダメです、関係を断ちましょう。(荊州にいる)劉備のほうが人物が優れているようです」と報告した。
上の事情があったから、曹操が張魯討伐を宣言して西征を始めた211年に、張松は「今こそ劉備殿の力を借りる時です。劉備殿に声をかけて曹操よりも先に漢中を奪ってもらいましょう」と劉璋に説いた。
劉璋は了承し、劉備への使者は張松の推薦する法正に決まった。
法正は出発する前、張松と密談をくり返し、益州の主を劉備にするための策を練った。
2人はすでに劉璋を見限っていた。
法正は、益州の詳細な地図などの重要情報を持参して、劉備に会見した。
そして地図などを劉備に渡しつつ、「蜀をお取り下さい。蜀の宰相である張松殿はあなたが攻めたら必ず内応します。」と伝えた。
劉備はさっそく幕僚を呼んで会議を開いた。
諸葛亮も龐統も「天の与えたもうた好機ですぞ。逃してはなりません。」と言った。
龐統はさらに、「孫呉の動きに気を付けねばなりません。留守の間に攻められないよう、かなりの兵力を荊州に残しておくべきです」と助言した。
諸葛亮も、「関羽、張飛の両将軍には残っていただきましょう。そのほうが劉璋も安心するはずです。」と助言した。
実はこの時期、劉備は孫呉から何度も「共に蜀へ出兵しよう」と誘われていたが、ずっと断わっていた。
劉備は蜀を一人占めする腹づもりだった。
劉備が単独で兵を率いて蜀に出発すると、同盟相手の孫呉は激怒した。
それで直後に劉備の妻・呉夫人(孫権の妹)が、「夫の外征中は実家(呉)に帰らせていただきます」と告げた。
激怒している孫権は、妹を帰国させるための船を派遣した。
呉夫人は帰国のさい、5歳の皇太子・劉禅を連れて出発した。
劉禅は、亡くなった甘夫人が生んだ子で、劉備のただ1人の男子だった。
呉夫人は二度と帰ってこないと思われたので、人質にされると危惧した趙雲が呉夫人の乗る船を追いかけて、劉禅を取り戻した。
この時期に孫権は、揚州・丹陽郡の秣陵に新しい都を造りはじめ、そこを「建業」と改名した。
建業は大都市に発展し、これ以後、中国南部に政権を樹立する者は大抵はこの地を都とした。これが現在の南京である。
さらに孫権は、曹操領の対呉の前線基地である合肥城と建業の間にある、濡須に砦を築いた。
213年1月に、曹操軍の大軍が、孫呉の江西営を攻撃した。
余談になるが、長江はその辺りで大きく曲がり、右岸すなわち南京方面を「江東」と呼び、左岸すなわち濡須方面を「江西」と呼んでいた。
これは現在の江西省のことではない。
3万の曹操軍に急襲された江西営は、守将の公孫陽が曹操軍の部将・許褚に捕まった。
実は許褚の妹はかつて公孫陽の許婚だったが、この妹は仏寺に入って結婚はしなかった。
捕虜となった公孫陽も仏寺に入るのを望み、曹操は許した。
一方、蜀に入った劉備は、張魯を討伐しようとせず、葭萌(かぼう)に駐屯し続けた。
劉備の真の目的は、劉璋のいる成都を攻め落として蜀を乗っ取ることだった。
劉備は龐統の策を採用し、葭萌のすぐ西にある白水関の守将である楊懐と高沛を罠にかけることにした。
ちょうどその時、劉備のところに、曹操に攻められた孫権から援軍要請が来た。
そこで劉備は、劉璋や白水関の守将に対し、「孫権の要請があったので、とりあえず荊州に戻ります」と伝えた。
劉備のことを信用してなかった楊懐と高沛は、この帰国を喜び、ニコニコ笑いながらお別れのあいさつに来た。
会話の途中で劉備は突然立ち上がり、「白水関に謀反ありと成都の劉璋殿から急使があった。お前たちを捕まえる」と言って、2人を捕まえて処刑した。
守将を失った白水関は、すぐに投降した。
劉備軍は劉璋のいる成都に進軍したが、内応する予定だった張松は愛人の告発により密謀がバレて処刑された。
劉璋の部将のうち、呉懿は劉備軍と戦って降伏し、李厳と費観は戦うことなく降伏した。
張任、劉璝、劉循(劉璋の息子)は、雒城に入って劉備軍を防いだ。
213年5月、曹操は魏公(国公)となり、冀州の10郡の国王となった。
これは後漢帝国の中に魏国という別の国が出来た状態で、曹操は九錫(皇帝に等しい待遇)も賜わった。
誰もがかつて王莽の行った王朝簒奪を思い出した。
213年7月、曹操は自分の娘3人を、献帝の後宮に入れることにした。
これも王莽を連想させた。王莽は外戚となって漢王朝を乗っ取ったからだ。
11月、魏国に尚書などの役職が置かれ、尚書令に荀攸が就任した。
曹操は、「魏公・曹操の位は諸侯王(漢朝の皇族たち)よりも上である」との詔書を献帝に出させた。
この頃になると曹操は、頭痛の持病が出ており、名医・華佗のつくった頭痛薬を飲んでいた。
華佗と曹操と同郷の人で、大麻系の麻酔薬を飲ませてから外科手術するのを得意としていた。
だが曹操は、華佗が自分の言う事を聞かないので(208年頃に)処刑してしまった。
曹操は、合肥城の南にある皖城を朱光に守らせたが、214年に攻めてきた孫権軍に朱光は敗れて捕虜となった。
話を蜀(益州)に戻すが、雒城は堅く、攻略中に龐統が戦死した。
劉備軍は、雒城を1年も包囲してようやく陥した。
このあと劉備軍は成都城を攻め始めたが、214年5月に劉璋は「これ以上、百姓を苦しめるのは忍びない」と言って降伏した。
劉備は諸葛亮の助言に従って、成都に貯えられていた金銀をことごとく将兵に分配した。
降伏した劉璋は荊州の公安城へ移された。
劉備は、劉璋側に立って戦った者たちも、戦後に登用した。
214年11月、献帝の妻である伏皇后とその一族が、曹操によって処刑された。
かつて伏皇后は、父・伏完がまだ生きている時、「曹操を除いて献帝が自ら政治を行うべきです。曹操討伐の勅書を私の力で出すことが出来ます!」という手紙を父に出したことがあった。
この時は伏完が娘をいさめて思い止まらせた。
この件が214年になって露見し、伏皇后は逮捕され殺されることとなった。
伏皇后は、尚書令の華歆によって暴室に連行された。
暴室とは罪を犯した官女を入れる刑務所で、ここで彼女は殺された。
死んだ日時は記録されてないが、おそらく入獄と同時に毒殺されたのだろう。
伏皇后の生んだ2人の息子(献帝の子)も毒殺され、伏氏の者やその一味が百人以上も処刑された。
翌215年の春、献帝の妾(側室)になっていた曹操の次女・曹節が、新たな皇后に選ばれた。
(2025年11月8日に作成)