タイトル匈奴、烏桓、鮮卑について(北方の遊牧民族)

(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)

中国の漢朝から晋朝の時代、北方には遊牧民族の匈奴、烏桓、鮮卑がいた。

モンゴル高原を支配する彼らは、前漢の武帝の攻撃によって弱り、後漢時代の西暦48年に南匈奴は漢朝に降伏した。

漢朝は、南匈奴の人々を(并州の)雲中郡に移住させて、彼らの首長である単于を民から離して西河郡に住まわせた。
そして彼らを監視する役人を置いた。

一方、北匈奴も衰弱して、91年に西に移動して中国の北方から姿を消した。

并州で暮らす南匈奴は、漢朝への反乱をくり返したが、140年の反乱で敗れた時に単于が自殺した。

その後も単于が179年、188年にも殺害されて、一時は空位にもなった。

216年に曹操の政策で、南匈奴たちは左、右、南、北、中の5部に分割された。

5部にはそれぞれ漢民族の帥(のちに都尉)が行政長官として派遣され、南匈奴たちを監督・監視した。

烏桓は、前漢の後半に勢力を増したが、後漢になると49年に漢朝に服属した。

漢朝は、護烏桓校尉を(幽州の)上谷郡の寧城に駐留させて、彼らを監督させた。

168年に烏桓は、遼西郡、上谷郡、遼東属国、右北平郡の各部族長がそれぞれ王を自称し、漢朝から自立した。

187年に中山太守の張純が諸郡の烏桓をまとめて長となり暴れたが、幽州牧の劉虞に敗れて殺された。

後漢末に烏桓を率いた蹋頓(とうとん)は、袁紹と結んだ。

袁紹の死後、曹操に攻められた袁紹の子・袁尚は蹋頓を頼った。

そこで曹操は207年に烏桓の討伐を行い、蹋頓を斬った。

烏桓たちは曹操に服属し、「烏桓突騎」と呼ばれる強兵が曹操軍に加わった。

なお『三国志』では、烏桓は烏丸と記されている。

烏桓よりも北方にいたのが鮮卑で、後漢朝期の54年に鮮卑は初めて朝貢した。

北匈奴が西に移住していなくなると、鮮卑が空いた地に入ってきて、156年に彼らの長の檀石塊がモンゴル高原を制圧した。

しかし檀石塊の死後に鮮卑は分裂した。

後漢末に軻比能(かひのう)が鮮卑のリーダーとなって、勢力を増した。

だが軻比能は、三国時代の235年に暗殺された。

その後、晋の時代には禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)が反乱を起こした。

ここからは余談になるが、竹林の七賢として有名な阮咸(げんかん)は、おばの家にいる鮮卑族の下女を愛していた。

おばが遠方に引っ越す時、阮咸は母の喪中だったが喪服姿で外出し、その下女を引き取って家に連れ帰った。

その女が産んだのが、八達の1人として知られる阮孚である。

(以上は2025年11月23日に作成)


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