羌族、氐族について(西方のチベット系民族)(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
漢朝や三国志の時代、中国の西方にはチベット系の羌族と氐族が暮らしていた。
羌族は、後漢時代に自立を強めて、最も漢朝に反抗した非漢民族だった。
西暦61年に漢朝は、護羌校尉という官職を新設して、羌族の監督・監視を命じた。
漢朝の役人たちは羌族をひどく扱ったので、怨みが高まり、107年に彼らは大反乱を起こした。
この反乱は118年まで続いた。
羌族は140年にも反乱を起こして、これは145年に終わった。
184年に黄巾の乱が始まると、羌族も挙兵して自立を強めた。
その中から韓遂や馬騰(とその息子・馬超)といった軍閥が生まれた。
氐族は、後漢末に自立を強めて、楊千万が王を名乗った。
そして213年に曹操が馬超・張魯を討伐しに来た時には、曹操軍と戦った。
だが敗れた結果、涼州の武都郡にいた氐族は、雍州の扶風郡と天水郡に強制移住させられた。
巴氐は氐族の一部で、巴人や白虎蛮とも呼ばれたが、巴の地方(現在の重慶のあたり)に住む非漢民族であった。
彼らは後漢時代は羌族の反乱を鎮圧する際に徴兵され、その勇猛さから「神兵」と呼ばれた。
彼らは後漢末になると五斗米道の信者が多くなり、(益州の)漢中郡を支配する五斗米道の教主・張魯に従った。
曹操が漢中を攻め取った時に、巴氐族は略陽郡に強制移住させられた。
(以上は2025年11月25日に作成)