215~217年の中国情勢(以下は『秘本三国志』陳舜臣著から抜粋)
215年3月に曹操は、漢中を支配する張魯を討つため、鄴城(鄴の都)から出陣した。
そして7月にようやく陽平関に迫った。
この時期、孫権と劉備は荊州の領有をめぐって紛争した。
208年に曹操が荊州を攻めた時、劉備は南に逃げて孫権を頼り、孫権はほぼ独力で曹操軍に赤壁の戦いで勝った。
だがその後に、荊州の南半分を劉備が手中にした。
この事について孫権は、劉備に荊州の半分を貸したと考えた。
214年に劉備が益州を治める劉璋を降伏させると、孫権は「劉備殿、あなたは益州を得たのだから、荊州を返してほしい。まず長沙、零陵、桂陽の3郡を返してほしい」と伝えた。
これは劉備にしてみると、曹操領と接していない荊州南部の郡だけ返せという、虫の好すぎる要求に思えた。
そこで劉備は、「我々はこれから(益州の北隣りにある)涼州を取るつもりだ。涼州を手に入れたら荊州全土をお返しする」と返事した。
これに怒った孫権は、3郡にそれぞれ自分の任命した行政長官を派遣したが、荊州の劉備領を守る関羽に追い払われた。
孫権は武力で奪うしかないと判断し、呂蒙に2万の兵を授けて3郡を奪うため出陣させた。
同時に魯粛に1万の兵を授けて益陽に駐屯させ、関羽が動けないように対峙させた。
呂蒙軍が来ると、長沙と桂陽の太守は降伏した。
零陵太守の郝普は降伏せずに粘ったが、友人の鄧玄之が説得して降伏に同意させた。
益州にいた劉備は、孫呉軍が攻めてきたと知ると、急いで荊州の公安城まで出張してきた。
ちょうどこの時に、曹操軍が漢中(益州漢中郡)に攻めてきたとの報が入った。
そこで劉備は、孫呉と和睦することにし、自らが譲る形で和睦を成立させた。
こうして呉側は、劉備の持っていた荊州領のうち、江夏、長沙、桂陽の3郡を得た。
劉備と孫権の同盟は回復し、劉備は益州に引き返した。
いっぽう曹操軍は漢中に到着すると、張魯の弟・張衛が守る陽平関を攻撃したが、苦戦した。
ところが215年7月のある日、突然に陽平関が落ちた。
この件は史書の記述に相違がある。
『三国志・魏書』の武帝紀(曹操の伝記)には、曹操がいったん兵を退き、陽平関の兵たちがほっとした所を夜襲して落としたとある。
しかし同じ『魏書』の劉曄伝では、 曹操が退却しようとするのに劉曄が反対して攻め続けて落としたとある。
さらに『魏名臣奏」にある董昭の上奏文によると、許褚の軍が退却中に敵の陣内に迷い込んでしまったが、これに驚いた敵軍が逃げたことで陽平関が落ちたとある。
この後、張魯は曹操に降伏して許され、曹操から鎮南将軍に任命された。
216年2月に曹操は鄴城へ帰還した。
なお曹操は漢中から帰還するにあたり、漢中の守備を夏侯淵に任せて、張郃、徐晃、杜襲を付属させた。
曹操は鄴に戻ると、216年5月に魏公から魏王に昇進した。
漢朝ではずっと、皇族以外は王にしないしきたりがあった。
漢の建国当初に例外的に長沙王となった呉芮(ごぜい)も、5代続いた後に後継ぎがなく廃立されている。
この慣例を曹操は破ったのである。
217年1月、曹操は孫権を攻めるため居巣に兵を進めた。ここは巣湖のほとりにある。
だが3月に曹操は、夏侯惇、曹仁、張遼らを残して、自分は鄴城に引きあげた。
曹操が前線に留まらずに鄴城に帰ったことについて、孫権は余裕があるからだと思い、曹操に和を乞うた。
いっぽう劉備の側近である法正は、曹操は後継者を誰にするかの問題で内紛を抱えているから帰還したのだと分析した。
法正は、「今が好機です。漢中に出兵する時です」と劉備に説いた。
これに対し諸葛亮は、「曹操は強いです」と言って懐疑的だった。
劉備は法正の意見をいれて漢中攻撃を決め、張飛を下辨城まで進ませた。
この217年は、鄴城のあたりでは奇病が流行し、次々と人が死んだ。
建安の七子と呼ばれる7人の文学者のうち、まだ生きていた5人、つまり陳琳、王粲、徐幹、応瑒、劉楨が亡くなった。
曹植の妾の康姫も死んだ。
217年10月に曹操は、ついに自らの後継者を曹丕に決め、王太子に立てた。
後継者に選ばれなかった曹植は、酒におぼれて殿中を千鳥足で歩くようになった。
ちなみに曹丕も、女や酒の乱行が少なくなかった。
先に鄴城で奇病が流行ったことに触れたが、この年の疫病では呉の魯粛も亡くなった。
魯粛の後は、かつての周瑜と同じに反劉備が持論の呂蒙が継いだ。
これにより呉の政策に変化が現れていく。
(2025年12月9~10日に作成)