(『関羽伝』今泉恂之介著から抜粋)
190年1月に、反董卓の連合軍が、袁紹を盟主にして結成された。
裴松子の注によると、劉備も軍を率いてこれに加わった。
だが小さな軍団だし、 おそらく公孫瓚の軍に加わったのだろう。
190年2月に、董卓は洛陽から西安(長安)への遷都を決行した。
董卓は、自分が抱えている後漢の献帝(劉協)を安全な所に移そうとしたのである。
連合軍は董卓軍と戦いつつ、洛陽に行くため汜水関を突破しようとした。
『三国演義』では、汜水関の戦いで関羽が董卓軍の総大将・華雄を斬っている。
だが史実は、孫堅軍が華雄を討ち取った。
また『三国演義』では、直後に虎牢関の戦いで呂布と劉備らが戦闘しているが、これもフィクションである。
実は汜水関と虎牢関は、同じ場所の別名にすぎない。
連合軍に押し込まれた董卓軍は、洛陽を焼き払って、西安に退却した。
連合軍は、焼け跡となったそれまでの首都・洛陽に入ると、気の抜けた状態になってしまい、自然解体した。
ここからは郡雄割拠の時代となる。
一方で、黄巾の残党はまだ各地にいた。
劉備は、黄巾残党との戦いなどで功績をあげ、青州・平原郡の執政官になった。
192年に西安で、呂布が王允にそそのかされて董卓を殺した。
呂布は董卓の養子になっていたが、義父を殺した理由を史書はこう書いている。
「董卓は短気で、怒って手槍を呂布に投げつけたことがあった」
「呂布は董卓の侍女と密通して、その発覚を恐れていた」
余談だが、呂布は数年後に劉備と出会った時、自分の妻を劉備に紹介している。
その妻は、元は董卓の侍女だった可能性がある。
『三国演義』では、呂布は貂蝉という名の董卓の侍女と密通したことになっている。
貂蝉はフィクションの人だが、それにしても貂蝉とは奇妙な名前である。
貂という姓は存在しないし、蝉という名もない。
貂は動物のテンのことで、蝉は昆虫のセミである。
古代の中国では、「貂蝉」は高官を表す言葉だったと、多くの書にある。
それが流用されたのだろうか。
192年に曹操は、兗州(えんしゅう)の牧になった。
普操は兗州の東にある徐州の陶謙と対立し、194年に徐州に攻め込んだ。
この時、陶謙は劉備に応援を求めて、劉備軍が駆けつけた。
徐州の中心地は下邳(かひ)で、陶謙はそこに居城があった。
陶謙は劉備を信頼し、病いが重くなると「劉備に徐州を任せたい」と遺言して亡くなった。
当時の徐州は、曹操だけでなく、徐州の南にある淮南(わいなん)を支配する袁術も狙っていた。
だから徐州の官僚たちは、武力のある劉備に頼ったのだ。
徐州の大富豪・糜竺は、奴婢1万人を抱えていたが、劉備に徐州の牧(長官)になるよう口説いた1人である。
195年になると、献帝は西安を抜け出して、196年に洛陽に戻った。
この時、曹掃は洛陽に行って、献帝を自らの本拠地・許昌(きょしょう 、又は許)に運んだ。
一方、呂布は西安での権力闘争に敗れると、東に移動してきた。
そして曹操の盟友だった張邈(ちょうばく)と組んで、兗州の乗っ取りに動いた。
この時に曹操は徐州を攻めていて、兗州を留守にしていた。
曹操は慌てて兗州に戻り、百日余りかけて呂布軍を破った。
曹操と呂布が戦っている間に、劉備は徐州の牧になった。
呂布は曹操に敗れると、徐州の下邳に逃げてきた。
劉備は利用できると考えて、呂布を訪ねた。
呂布は寝室に招いて、妻にも挨拶させた。
当時の中国の習慣では、妻を客人に紹介するのは異常だが、呂布はモンゴル出身と 見られる人で、習慣が違ったのかもしれない。
呂布は、初対面の劉備を「弟」と呼び、劉備は「この男は異常だ」と感じた。
劉備は、呂布の武力に魅力を感じたのだろう、徐州の西部にある小沛城を呂布に守らせることにした。
小沛は、曹操のいる兗州に近く、最前線の城である。
196年、袁術が徐州に攻めてきた。
劉備が出陣すると、 袁術は呂布に「糧米20万石を送るから味方になってくれ」と密書を送った。
呂布はこれに応じて、下邳城を乗っ取った。
だが袁術は約束の糧米を送らず、呂布は劉備を味方にすることにして、小沛城に駐屯させた。
呂布は徐州の牧を自称した。
『後漢書・呂布伝』によると、この後、袁術が小沛城を攻め、劉備は呂布に助けを求めた。
すると呂布は小沛に行き、劉備と袁術軍の大将・紀霊を酒宴に招いた。
そして「争いを丸く治めたい。私が矢を放ち、あそこにある戟の枝刃に命中したら、兵を引いてくれ」と言った。
矢は見事に命中し、両軍は兵を引いた。
小沛で劉備が1万人の兵を持つまでに力をつけると、怖れた呂布は小沛城を攻撃した。
劉備は敗れて、曹操のいる許昌に向かった。
曹操は手厚く迎えて、劉備を豫州(よしゅう)の牧に任命した。
曹操の参謀・郭嘉は、「劉備は雄才があり、張飛と関羽という万人を相手にする勇者も付いてます。劉備は人の下にいる男ではなく、早いうちに処置すべきです」と進言した。
これを曹操は、「いまは英雄を迎える時である。それに劉備ほどの者を殺せば人心を失う」と却下した。
劉備は曹操に相談した上で、197年に小沛城を奪い、再びここを拠点にした。
しかし198年に呂布が小沛城を攻めると、曹操は夏候惇を援軍に送ったが、劉備は敗れた。
劉備は、妻子を城に残したまま逃げて、許昌に戻った。
198年10月、曹操は呂布を攻めて下邳城を囲んだ。
そして水攻めをし、呂布を降伏させた。
捕虜となった呂布は曹操に対し、「私に騎兵の指揮を任せて、貴公が歩兵を率いれば、天下平定も簡単にできる」と提案した。
曹操が迷いを見せると、側にいた劉備は「呂布が丁原や董卓にどのように仕えたか、ご存知でしょう」と忠告した。
曹操はうなずいて「殺せ」と命じたが、呂布は劉備に向かって「こいつが最も信用できないぞ」とわめいた。
呂布は殺され、呂布の配下にいた張遼は曹操の配下となった。
この後、劉備は左将軍、関羽と張飛は中郎将に任命された。
『蜀書・関羽伝の注』によると、関羽は曹操軍が呂布のいる下邳城を囲んだ時、「呂布の妻を娶りたい」と曹操に言い、曹操はそれを許可した。
ところが曹操は、その妻が美人だと知ると自分のものにしたので、関羽は不快の念を示した。
さらに『魏書・明帝紀の注』には、「関羽は、袁術の前妻で、呂布の側室になった杜氏を、妻にしたいと曹操に願い出た」とある。
また『蜀書・関羽伝の注』には、「劉備が曹操と狩りに出た。人々が狩りで散った時、関羽は曹操を殺そうと劉備に持ちかけたが、劉備は頷かなかった」ともある。
(2025年1月3日に作成)