三国時代の基礎知識

(以下は『関羽伝』今泉恂之介著から抜粋)

後漢時代は14の州があり、「刺史(しし)」と「牧(ぼく)」はその長官である。

188年までの州長官は、刺史と呼ばれていて、権限の少ない視察官だった。

しかし184年に始まった黄巾の乱のため、軍事権を持つことになり、職名も牧に変更された。

州内には、皇族が王となる「国」と、官僚が長官になる「郡」があった。

国と郡は同格で、国の長官は「相(しょう)」、郡の長官は「太守」と呼ばれた。

そして国や郡の下の行政単位に、「県」があった。

後漢の軍隊は、大将軍がトップで、その下に驃騎(ひょうき)、車騎、衛、前、後、左、右の7将軍がいた。

7将軍たちは同格だった。

後漢の爵位は、上から帝、王、公、侯である。

侯は、上から県侯、郷侯、亭侯に分かれた。

揚州(ようしゅう)は、揚子江(長江)の下流域に広がる地域で、建業(現在の南京付近) が中心地だった。
揚州は、東は海に面している。

孫権がこの地で盟主になり、呉を建国した。

荊州は、揚子江の中流域の地域で、中心地は揚子江の北にある襄陽、樊城、江陵(現在の荊州市)。

ちなみに荊州は、春秋戦国時代は楚の中心地であった。

後漢の時代、荊州は首都・洛陽の人々にとって、外国に近かっただろう。

今でも中原の人は、荊州人を「蛮子(マンツ)」と呼び、荊州人は中原人を「跨子(クアツ)」と呼ぶことがある。

跨子は、「向こう側の人」という意味だろう。

益州は、荊州の西にあり、代表的な郡名の「巴蜀」、または「蜀」の名で呼ばれた。

劉焉が益州の牧となって赴任し、194年に病死すると息子の劉璋が後を継いだ。

劉備が劉璋を攻めて降伏させると、蜀漢を建国した。

(※揚州の西に荊州がある。荊州の西に益州がある。
この3州が中国南部の主要な州である。)

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

人名の「字」は、男女を問わず成人式に付けられるものだった。

「名」(死後は諱(いみな))は、両親、皇帝、師匠しか本人に対して呼ぶことは出来なかった。
だから普段は字で呼び合った。

字は、普通は漢字2字であった。
(劉備玄徳の玄徳、諸葛亮孔明の孔明など)

諸葛亮孔明の場合、諸葛は氏、亮は名、孔明は字である。

後漢朝の中央政府は、宰相である三公(太尉、司徒(しと)、司空(しくう)の三職)と、大臣である九卿(きゅうけい)が動かした。

九卿は、太常(たいじょう)、光禄勲(こうろくくん)、衛尉、太僕(たいぼく)、延尉、大鴻臚(だいこうろ)、宗正(そうせい)、大司農、少府という各府の長官である。

魏と晋の時代になると、行政権は尚書台(尚書省)に移行した。

尚書台の長官は尚書令、次官は尚書僕と呼ばれ、共に宰相の事である。

三公らは尚書台を統括し、実権を握った。

なお三公は常設の官職だが、状況に応じて相国(しょうこく)や丞相(じょうしょう)も置かれた。

三公や丞相、上公とも呼ばれる太宰(たいさい、太師ともいう)、太傅(たいふ)、太保(たいほ)や、大司馬、大将軍は、一品官である。

三公に準ずる驃騎将軍などは、二品官である。

一品官と二品官は、開府して辟召(へきしょう、人材を召し抱えることを)する特権を持った。

(※一品官から九品官は官職のランクである。俸禄も違っていた)

皇帝の秘書官庁が中書省で、詔書の起草をした。
その長官は中書監と中書令(共に三品官)で、次官は中書侍郎(ちゅうしょじろう、五品官)である。

皇帝の顧問をしたのが門下省(もんかしょう)と散騎省(さんきしょう)で、門下省の侍中(三品官)、黄門侍郎(五品官)と、散騎省の散騎常侍(三品官)と散騎侍郎(五品官)とは対をなした。

他の官庁には、執金吾府(しっきんごふ、洛陽城内の警護をする官庁)があり、長官は執金吾(しっきんご、三品官)である。

御史台(ぎょしだい)は、官吏の監察をし、その長官は御史中丞 (四品官)などがあった。

地方の行政は、州、郡、県の3級に分かれていた。

州の刺史(長官)は五品官で、官位が進むと州牧(三品官)になった。

また首都・洛陽のある地域は司隷校尉(三品官)が置かれ、百官の不正を摘発した。

郡の長官は太守(たいしゅ、五品官)と呼ばれ、都尉(とい)が郡の治安を担当した。

洛陽を含む河南尹(かなんいん)は、河南郡のことで、長官は河南尹(三品官)と呼ばれた。

また郡が王国の場合(※皇帝の一族は王と呼ばれた、王が治めると王国になる)、長官は相(五品官)と呼ばれた。

県は、大きな県と中くらいの県だと長官は令(七品官)が置かれ、小さな県だと長(八品官)が置かれた。

州の刺史や郡の太守は、本来は民政担当だが、戦乱の時代に入ると軍隊を指揮するようになった。

都督(ととく)とは、敵軍を征伐するにあたり、皇帝に代わって全軍を指揮する者の職名である。

都督は、州刺史ら郡太守らを指揮下に置く。

都督はその権限により、上から「都督」「監」「督」の3ランクがあった。

他にも中央政府には、禁軍(皇帝直属の軍)を動かす「都督中外諸軍事」や「大都督」もいて、これは重臣が任命された。

また「持節(じせつ)」の肩書きが都督に付帯する場合は、配下の者を処刑する権限を皇帝から与えられていることを意味した。

その権限の大きさによって、「使持節(しじせつ)」、「持節」、「仮節(かせつ)」の3ランクがあった。

後漢朝の官吏登用は、郡太守らの推挙が主で、推挙された者はまず中央政府の光禄勲に属し、そこから様々な官職に任命された。

魏の建国の直前に、「九品官人法」(きゅうひんかんじんほう)が施行され、中正(ちゅうせい)が同じ郡の者に一品から九品までの郷品(きょうひん)を与えて、官吏になる資格とした。

九品官人法は、しだいに祖父や父の官職がものをいうようになり、門閥貴族制に堕落した。

魏朝の文帝(曹丕)は、「五都」を制定した。

首都の洛陽と、陪都の長安、譙(しょう)、許昌、鄴 (ぎょう)の5つの都を、重要な都市に位置づけた。

長安は前漢の首都だった所で、董卓が献帝をそこに運んだが、董卓の死後に戦争で荒廃した。
それでも重要な地であり続けた。

譙は曹操の出身地で、魏朝は重視したが、西晋時代になると重要度は下がった。

許昌(元は許県)は、曹操が一時期は本拠にしていた都で、周辺に屯田をさせていた。

鄴(鄴県)は、曹操のライバルだった袁紹が本拠にしていた都で、魏の時代も重要な所だった。

補足すると、後漢朝の出身地であり「南都」と称された宛県(南陽郡)は、袁術の本拠地だった。

大川富士夫と川勝義雄の研究によると、孫呉を支えたのは「無頼任侠の集団」と、呉郡と会稽郡の「豪族たち」である。

前者の代表は周瑜や魯粛だ。

両者は「山越」(少数民族)を討伐して連行し、その人々を奴隷として軍隊や屯田や荘園で働かせた。
このため呉の兵士の半分は山越と言われていた。

呉の将軍たちは、「世兵制」(せいへいせい)で軍隊を世襲したので、孫呉とは「私兵集団の連合政権」であった。

◎補記

記事作成における裏取り作業中に、ウェブサイトの「風篁楼」にたどり着いた。
地味だが良質な中国史のサイトと思えた。いちおう書いておく。

(2025年1月3日に作成
2月18日に加筆)


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