(以下は『関羽伝』今泉恂之介著から抜粋)
199年に後漢の献帝は、自分を操作する曹操に不満を持ち、「曹操を誅殺せよ」との密書を親類の車騎将軍・董承(とうしょう)に渡した。
董承はこの曹操暗殺計画に、劉備を口説いて仲間に入れた。
この時、劉備は39歳、関羽は40歳だった。
この頃、淮南を支配してきた袁術は力を失い、袁紹を頼ろうと北に向かった。
曹操は、袁術を討とうとし、配下の劉備を(袁術が通る徐州に)出陣させた。
だが袁術は出発してすぐに病死してしまった。
曹操は劉備に引き上げるよう命じたが、劉備は徐州を治める車冑(しゃちゅう)を殺して、199年に徐州で独立した。
劉備は、北方を支配する袁紹に対し、孫乾を派遣して交渉し連携を策した。
さらに下邳城に関羽を置いて太守に任命し、自分は小沛城(※ここは曹操の支配地と接している最前線の城である)にいて周辺の豪族を味方につけようとした。
劉備は、「曹操は袁紹との戦いで手一杯で、こっちには攻めてこない」と見ていた。
だが200年に入ると、曹操自らが徐州に攻めてきた。
200年1月に、董承のクーデター計画(曹操暗殺計画)がもれて、董承らは処刑された。
計画に劉備も賛同していたと知り、曹操は見逃せないと思い自ら討伐に出たのだろう。
曹操軍が小沛城に迫った時、劉備はその報せを信じられず、数十騎を連れて城外に見に出た。
敵軍に曹操の旗があるのを見ると、劉備は完全にビビってしまい、城兵たちを置いてそのまま袁紹の領地に逃亡した。
下邳城にいる関羽は、劉備から報せを受けず、劉備がどこに行ったか分からなかった。
曹操軍に攻められた関羽は、下邳城にいる劉備の妻2人(甘夫人と糜夫人)と共に、曹操に降伏した。
ちなみに劉備は、生涯に妻子を捨てて逃げた事が3度もある。
(今回は呂布に負けた時に次ぐ、2度目である)
降伏した関羽は、曹操の配下となった。
『三国演義』では、曹操は関羽に名馬「赤兎」を与えている。
しかしこれはフィクションで、正史では赤兎は「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」などと少し言及されるのみだ。
曹操の配下になった関羽は、献帝もいる許昌の都で暮らし始めた。
曹操は関羽を厚遇したが、関羽は劉備への忠誠を続けた。
曹操は関羽の頑固一徹さに呆れつつも、「天下の義士」と絶賛して、最後には快よく劉備の所へ送り出すのである。
「忠義の人・関羽」のイメージは、許昌にいた時期に出来上がったと言える。
曹操は関羽の本心を聞くため、関羽と親しい張遼に「本心を聞いてくれないか」と頼んだ。
張遼に対して関羽は、「劉備将軍の恩義に背くことは出来ない。私はここを出ていくだろう。しかし去るに際しては、手柄を立てて曹操殿の恩に報いなければならない」と話した。
曹操は張遼からこの事を聞くと、「さすがは天下の義士だ」と感心した。
曹操はこの時期、袁紹と戦っていた。
200年2月に袁紹は、軍を率いて黄河を渡り、白馬を守る曹操軍を攻め破って、白馬に陣をしいた。
一方、曹操は白馬の南西にある官渡に、かねてから防衛拠点を作っていた。
200年4月に、関羽は張遼と共に白馬を攻め、関羽は一騎討ちで敵軍の大将・顔良を殺した。
なお正史が書く関羽の一騎討ちは、この1つだけである。
『蜀書・関羽伝』に、こうある。
「関羽は敵陣の指揮旗へ馬にムチを入れて一気に突き進み、双方の軍勢が見守る中で顔良を刺して、その首を斬り取って帰った。」
この直後の出来事を、『武帝(曹操)紀』は、こう書いている。
「袁紹は顔良が戦死したと聞くと、曹操との直接対決を狙った。
袁紹軍の大将は文醜で、劉備と共に5~6千騎を率いていた。
兵数で不利な曹操は、兵器や糧秣を街道に置き、袁紹軍をおびき寄せ、大勝利を収めて文醜を討ち取った。
袁紹軍は後退し、曹操は官渡に戻った。関羽は劉備の所へ帰った。」
上の『武帝紀』を見ると、合戦中もしくは合戦直後に、関羽は劉備と合流したように思える。
だが実際は、曹操と共に許昌に帰った。
関羽は戦功により漢寿亭侯の爵位をもらった。
関羽はこの後、曹操の許を去るが、去るにあたり貰っていたものを封印して置いていった。
当時、恩義を受けた人の所から去る場合、貰ったものを返すか置いていくのがマナーだった。
曹操は、関羽が顔良を殺す手柄を立てたので、別れの時がきたと知り、特別な褒美を与えた。
関羽はそれも封印して、お礼と別れの手紙を書いた。
関羽が去る時、曹操の武将たちは追いかけて捕まえようとしたが、曹操は「あれも主に尽くす姿だ。追ってはならない」と命じた。
史書の記述からは、関羽が去る時に曹操は多くの者を連れて見送ったと考えられる。
実は関羽が曹操の許を去った時、劉備は袁紹の指令で許昌の南100kmにある汝南でゲリラ活動をしていた。
関羽は、袁紹軍の大将・顔良を斬った。
それで劉備の立場は危うくなり、かつて曹操の下を離れたように、袁紹の下から離れて独立を画策したのだろう。
曹操は、劉備が汝南にいると知り、劉備がもう袁紹の下に戻らないと見て、関羽の出立を許したと考えられる。
劉備は汝南で独立を図り、そこに関羽や張飛や趙雲らが参集した。
だが、この時期の劉備たちについて、正史には記録がほとんどない。
なお、関羽が劉備に合流する間に、『三国演義』では周倉という者が関羽の家臣となるが、これもフィクションである。周倉は架空の人物だ。
劉備と関羽が汝南で再会した頃、官渡では袁紹軍と曹操軍の睨み合いが続いていた。
200年10月に、袁紹軍の参謀をしていた許攸が、曹操軍に寝返った。
たびたびの献策が取り上げられなかったからだ。
曹操軍に寝返る者が増えてきたため、袁紹軍は北に撤退した。
曹操は官渡で戦っている間に、劉備を討つべく汝南にも軍を出した。
だが返り討ちにあい、大将の蔡陽が討ち取られてしまった。
曹操は次に曹仁を送り込み、曹仁は劉備軍を破って、反乱を平定した。
だがその後、劉備は汝南で再び勢力を築こうとした。
それで201年に曹操は、本格的に汝南を攻めたが、劉備は逃げて荊州の劉表を頼っていった。
(2025年1月5~7日に作成)