タイトル関羽の生涯④
諸葛亮の加入、赤壁の戦い

(以下は『関羽伝』今泉恂之介著から抜粋)

荊州は、揚子江の中流域の地域で、中心地は揚子江の北にある襄陽、樊城、江陵(現在の荊州市)だった。

劉表は190年に荊州の牧に任命されて、この地に赴任し、独立圏を作った。

劉備が汝南で独立に失敗し、荊州の劉表を頼ったのは、201年のことだった。

当時、軍事力は曹操が一番になっていたが、支配地の広さでは孫権、劉表、劉焉が上回っていた。

すでに(中国北東部が拠点の)袁紹の勢力は消えかけていたから、この時期は曹操(兗州など)、孫権(揚州)、劉表(荊州)、劉焉(益州)の「四国時代」と言えるだろう。

劉表は、頼ってきた劉備を荊州の北部にある新野城の城主にした。

新野城は、北にいる曹操が攻めてきたら、最初の防衛ラインになる場所だ。

新野は、中原と荊州の境界であり、気候的に見ると温帯と亜熱帯の境でもある。

新野は、中国の南北交易の橋にもなっていた。

曹操は203年に、夏侯惇に命じて新野を攻めさせた。

劉備軍はこれを新野の北100kmにある博望(はくぼう)で迎え打ち、大勝した。

『三国演義』ではこの大勝を、諸葛亮の活躍にするため、208年の出来事に変えている。

207年に曹操が北平支配の仕上げとして少数民族の烏桓(うかん)を攻めた時、劉備は「手薄になっている(曹操の本拠地である)許昌を攻める時です」と、劉表に進言した。

だが劉表は動かなかった。

荊州に司馬徽(しばき)という学者がいて、水鏡先生と呼ばれていた。

劉備はこの先生に会った時、「誰か天下の形勢を教えてくれる人はいますかね」と訊ねた。

すると司馬徽は、「荊州に住む伏龍と鳳雛(ほうすう)だな。つまり諸葛亮と龐統だ」と答えた。

それからほどなくして、徐庶が劉備に仕えると、徐庶は諸葛亮を推薦した。

劉備は「その人を連れてきてくれ」と言ったが、徐庶は「あれほどの人を呼びつけてはいけません。自分から会いに行くべきです。」と説いた。

それで劉備は諸葛亮に会いに行き、「おおよそ3回目に会うことができた」と『三国志・蜀書・諸葛亮伝』にある。

『三国演義』に長々と書かれた「三顧の礼」の件(くだり)は、上の話を膨らませたフィクションである。

諸葛亮が劉備に仕え始めたのは208年の初めで、諸葛亮は28歳、劉備は47歳、関羽は49歳、張飛は36歳だった。

関羽と張飛は、「何であんな若造に俺たちが従うんだ」と不平をもらしたが、年齢差を考えると無理もない。

『蜀書・諸葛亮伝』には、「劉備は、自分と諸葛亮の関係を、魚と水のようなもの」と言ったとある。

これは親密さを表す言葉とされて、「水魚の交わり」という言葉を生んだが、実は仲の良さではなく諸葛亮の存在の大きさを語ったという説がある。

確かに魚と水は仲間ではない。

諸葛亮は後に書いた『出師((すいし)の表』で、劉備に仕えるに至った経緯をこう述べている。

「私は南陽において、畑を耕して人生を全うすることを考え、誰かに仕える気持ちはありませんでした。

ところが先帝(劉備)は、3度にわたり私の草庵に足を運び、情勢について質問されました。

私はそのことに非常に感激し、先帝のために全てを捧げようと誓いました。」

ただし『蜀書・諸葛亮伝の注』には、「諸葛亮は曹操が荊州を(本格的に)攻めると見抜いていたが、劉表は能力不足なので、劉備を訪ねて参謀になった」とある。

諸葛亮は、劉表の腹心である蔡瑁と縁続きで、劉表とのコネはあったのだが、農業をして暮らしていた。
劉表を能力不足と見ていたのは確かだろう。

劉備は諸葛亮に会った時、「私は漢室の復興を目指しながらも、智略不足で連戦連敗を重ねてきました」と率直に話した。

これに対し諸葛亮は、次のように献策した。

「董卓の乱から以後は、天下に割拠する者が多く出て、袁紹が名声と兵力で一番でした。
しかし曹操が袁紹を破りました。それは曹操の智謀によるものです。

あなたは曹操と力の差があり、まともには戦えません。同じように孫権とも戦えません。

荊州の劉表は能力不足で、あなたの自由にせよと天が言っているような状況です。

さらに益州は、漢の高祖(劉邦)が根拠地にした所ですが、治めている劉璋は能力がなく、心ある者は有能な支配者を待っています。

あなたは荊州と益州を手中にして、西方や南方の民族を手なずけ、孫権と結んで、 内政の充実を図るべきです。

そして情勢の変化を待ち、曹操を攻めれば、漢王朝の再興もできます。」

劉備は上の構想を聞いて、「それは良い」と感心した。

なお、上記した『出師の表』で諸葛亮は、「南陽にいた」と語っている。

だが隆中にいたとも『三国志』には書かれている。

隆中には、諸葛亮が亡くなってから60年後に襄陽の太守・劉弘が建てた記念碑があり、 それには「ここに諸葛亮の住居があった」とある。これは有力な証拠だ。

208年に入ると、劉表は病気が進んで、その跡目争いが生じた。

長男の劉琦は、異母弟の劉琮に押されぎみで、暗殺の危険を感じて諸葛亮に相談した。
諸葛亮は、「ここに残らないほうが良い」と助言した。

ちょうど荊州・江夏の太守である黄祖が、孫権に攻められ殺されたので、劉琦は後任を願い出て江夏に移った。

208年7月に曹操は、自ら軍を率いて荊州に進軍を始めた。

翌8月に劉表が病死して、劉琮が後を継いだ。

劉備は、新野の南50kmにある樊城に退いて、ここで曹操を迎え撃とうとした。

ところが劉琮は降伏を決断した。
曹操が樊城まで150kmに迫った頃、劉備は劉琮の降伏を知った。

劉備は、劉琮のいる襄陽よりもさらに南、襄陽の南200kmにある、江陵まで退くことにした。

江陵は、食糧や軍事物資が蓄えられている所だった。

劉備が江陵に向かうと、襄陽の住民が10万人も後を追ってくる事態が発生した。

劉備は関羽に命じて、船で民衆を優先的に江陵へ運んだ。

曹操軍は、劉備たちに襄陽の南120kmにある長坂坡(ちょうはんは)で追いつき、 ここで乱戦となった。

劉禅(阿斗、劉備の子)を救出する趙雲の活躍と、長坂橋における張飛の踏んばりが、『三国志』に書かれている。

逃げた劉備たちは、劉琦の率いる一万あまりの軍と合流して、一緒に夏口(長坂坡からかなり東にある、現在の武漢)に向かった。
そこは江夏の太守・劉琦の支配地である。

夏口はすぐ南が揚子江で、もう少し東に行けば呉の国(揚州)である。

この時、孫権軍は夏口の南まで来ており、揚子江を渡った南岸(赤壁)に布陣していた。

夏口に劉備軍が到着した時、諸葛亮は劉備に「私が孫権将軍に会い、救援を求めます」と進言した。

諸葛亮は、孫権のいる柴桑(さいそう、赤壁の東にある)に行き会見した。
そして「共に曹操と戦いましょう」と説得した。

一方、進軍してきた曹操軍は、孫権軍のいる赤壁の対岸にある、鳥林(うりん)に船団を集めて布陣した。

208年11月に周瑜の指揮で、孫権軍の船団が赤壁を出発し、対岸にいる曹操軍に向かった。
東南から吹く季節外れの風を見て、戦端を開いたのである。

鳥林(曹操軍)の東南に赤壁(孫権軍)の位置関係だから、孫権軍は追い風を受ける形だ。

孫権軍の黄蓋は、曹操軍に「降伏する」との偽情報を伝えてから、枯れ草を満載した船で近づき、火を放ちつつ曹操軍の陣に突入した。

火は曹操軍の船団と陣を焼いていき、勝負は一気についた。

この合戦(赤壁の戦い)では、劉備・劉琦軍は曹操軍の北東に布陣しており、敗走する曹操軍の掃討に参加したようである。

曹操軍は華容道(かようどう)を使って、揚子江の北岸を北西に逃げたが、『三国志・武帝紀』にこうある。

「華容道の難所を過ぎた所で、曹操はこう言った。
『劉備は少々動きが鈍い。先回りして火を放っていたら、我が軍は全滅しただろう。』

劉備軍は火を放ったが、間に合わなかった。」

曹操は孫権と劉備の討伐を諦め、荊州の江陵城に曹仁を、襄陽城に楽進を残して、自らは許昌に引きあげた。

この後、周瑜軍と劉備軍は江陵城を包囲したので、209年に入ってから曹仁は城を捨てて逃げた。
その際、関羽は掃討作戦を担当したが、曹仁を取り逃がした。

『三国演義』にある、赤壁の戦いに負けた曹操の敗走中、関羽が曹操を見逃すエピソードは、曹仁軍の掃討をヒントにしたと考えられる。

江陵城を落とした後、周瑜は自らここに駐屯した。

一方、劉備は江陵の南にある公安に城を築き、劉琦を荊州の牧として担いで、勢力拡大を図った。
すると劉表の旧臣たちが、曹操領の襄陽を脱出して、劉備の下に集まってきた。

劉備は荊州のうち、揚子江の南にある4郡(武陵、桂陽、零陵、長沙)を自分のものにしようとし、4郡の太守たちを味方につけた。

これについて孫権の側は、「劉備の行動を見逃すことで、4郡を劉備に貸した」と解釈した。

劉琦が209年に病死すると、劉備が荊州の牧を継いだ。

210年に周瑜が病死すると、その任務を魯粛が継いだ。

魯粛は、劉備や諸葛亮を深く信頼していたので、江陵城を劉備に譲り、孫権軍は荊州から撤退した。

劉備が江陵を得て、荊州にある曹操の支配地と直に対峙した時、知らせを受けた曹操はショックのため持っていた筆を落としたという。

(2025年1月7~8日に作成)


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