始皇帝の焚書(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋
2026年10月14日に作成)
前213年の始皇帝の焚書は、医薬、ト筮(ぼくぜい)、種樹(農業)の書は除外された。
儒家などの思想家の書は、「博士の官職にある者だけは所有してよい」との条件を付け、民間のものは全て焼いた。
始皇帝は焚書の翌年には、「抗儒」(儒学者たちを穴埋めにして殺すこと)も行った。
焚書令の3年後に始皇帝は病死し、その3年後に秦は滅亡した。
焚書で書籍は焼かれて失われたが、その内容を記憶している人がいたので、漢が建国され平和になると復元作業が行われ、多くの古典がよみがえった。
『書経』は100篇あったが、伏生が28篇をよみがえらせた。
焚書の時、博士の管理する分は焼かれなかったはずだ。
伏生は博士だったのに28篇しか残せなかったのは、項羽が秦の都・咸陽の宮殿などをを焼き払った時に失われたとしか考えられない。
項羽は若い頃、読み書きも剣術もものにならず叔父の項梁に怒られた時、「書は自分の名が書ければ十分です」と開き直っている。
そんな男なので書物の価値が分からず焼いてしまったのだろう。
項羽とは対照的に、1233年にモンゴル軍が金の都・汴京(開封)を落とした時、モンゴル軍の司令官の張柔は掠奪の許可令が出ていたのに国史院に駆けつけて金朝の史料を守っている。
前漢の景帝(在位は前157~144年)の時代に、孔子の旧宅が壊されたところ、壁の中から『書経』が出てきた。
これは伏生のものより16篇多く、蝌蚪文字という古い字体で記されていたが、「孔壁古文」と呼ばれた。
これは三国時代まで伝わっていたが、戦乱で失われた。