(『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋)
武漢は、革命(清朝の打倒)の根拠地の1つで、「文学社」と「共進会」という2つの革命結社があった。
この2つの会と、宋教仁や陳其美らを主とする上海の「同盟会・中部総会」は、1911年に入って四川省に暴動が起きると、武漢(※湖北省にある)で革命の蜂起をする準備を始めた。
1911年10月9日に、(武漢市の)漢口のロシア租界で、密造中の爆弾が誤爆し、蜂起の話が漏れた。
そこで革命軍は10月10日に決起したが、11日には武昌と漢口を、12日には漢陽を占拠した。
革命軍は、第一混成旅団長の黎元洪を都督に推戴し、湖北省の独立を宣言した。
黎元洪は革命派ではなかったが、文学社と共進社に指導権をめぐる争いがあったため都督を選べず、やむなく信望のあつい黎元洪を担いだのである。
武漢で革命(蜂起)が起こると、10月23日には湖南省の長沙が呼応して独立宣言するなど、たちまち諸省が独立した。
この無血の革命(辛亥革命)が非常な速さで進んだのは、地方のボスで地主の「郷紳」が革命側についたからだった。
革命軍の先頭に立ったのは貧農か流民だが、彼らの鉾先が自分たちに向くのを恐れた郷紳は、保身のために革命に加わった。
郷紳は、清朝が政治改革をして権力を中央政府に集中させる中で、清朝から心が離れていった。
地方分権を生命源とする彼らは、清朝を見限ったのである。
独立を宣言した省は、その代表者たちが1911年11月末に上海に集まり、ヨーロッパから帰国したばかりの孫文を「臨時大総統」に選んだ。
そして1912年1月1日に、南京にて「中華民国・臨時政府」が生まれ、五色旗を国旗とした。
1月末には立法機関として「臨時・参議院」が開かれ、『臨時約法(仮の憲法)』を可決した。
ここに、中華民国が南京を首都として誕生した。
この1912年をもって民国元年とし、太陰暦を廃して太陽暦を用いて、革命の起きた10月10日を建国記念日とした。
一方、清朝政府は、河南に隠退していた袁世凱を、革命勢力を倒す将軍に起用しようとした。
清朝の皇族である載灃(醇親王)は、さきに袁世凱を失脚させていたのだが、革命を潰すために袁世凱の武力に頼ることにした。
だが、袁世凱はなかなか動こうとせず、やむなく載灃は摂政の地位から降りて、袁世凱を内閣総理大臣に任命した。
最高権力を手にした袁世凱は、ようやく動いて、腹心の馮国璋と段祺瑞を南下させて、たちまち漢口と漢陽を取り戻した。
袁世凱はそのまま革命軍を潰滅できただろうが、それ以上は軍を進めず、革命軍と和平交渉を始めた。
これは、天下を獲ろうと計をめぐらせたのである。
革命派たちは、袁世凱の軍に倒されるか、袁世凱を大総統に任命して臨時政府を守るかを迫られた。
リーダーの孫文は、「清の皇帝を廃位させたら、臨時大総統の地位を袁世凱に譲る」と、袁世凱と約束した。
袁世凱は進軍していき、1912年2月12日に清朝の皇帝(宣統帝)の溥儀を退位させた。
溥儀は、「帝号を廃さず、年金をもらって紫禁城(王宮)に住み続けること」を条件に、退位に同意した。
ここに、清朝は滅んだ。
中国で2000年以上も続いてきた専制君主制が終わり、民主共和制の政治が始まることになった。
しかし実際には、まだ民主共和制は名目だけで、すぐに袁世凱の専制政治が始まることになった。
袁世凱は、1912年3月10日に北京で、臨時大総統の就任式を挙げた。
孫文は、袁世凱が独裁者になるのを恐れていたから、「大総統になるのは南京で行うこと」「政府は南京に置くこと」を、大総統を譲る条件にしていた。
革命派の地盤は中国の南部にあったから、袁世凱を南部に連れてこようとしたのである。
南京の臨時・参議院は、袁世凱の専制を抑えるために急いでつくったもので、人事や宣戦や条約締結で大総統の専断を許さず、参議院の議決が必要になっていた。
しかし、袁世凱は上記のとおり、北京で大総統に就き、政府も北京に移してしまった。
(2022年8月17日に作成)