(以下は『世界の歴史20 中国の近代』市古宙三著から抜粋
2022年8月17日に作成)
武漢は、革命(清朝の打倒)の根拠地の1つで、「文学社」と「共進会」という2つの革命結社があった。
この2つの会と、宋教仁や陳其美らを主とする上海の「同盟会・中部総会」は、1911年に入って四川省に暴動が起きると、武漢(※湖北省にある)で革命の蜂起をする準備を始めた。
1911年10月9日に、(武漢市の)漢口のロシア租界で、密造中の爆弾が誤爆し、武装蜂起の話が漏れた。
そこで革命軍は10月10日に決起したが、11日には武昌と漢口を、12日には漢陽を占拠した。
革命軍は、第一混成旅団長の黎元洪を都督に推戴し、湖北省の独立を宣言した。
黎元洪は革命派ではなかったが、文学社と共進社に指導権をめぐる争いがあったため都督を選べず、やむなく信望のあつい黎元洪を担いだのである。
武漢で革命(蜂起)が起こると、10月23日に湖南省の長沙が呼応して独立宣言するなど、たちまち諸省が独立した。
この無血の革命(辛亥革命)が非常な速さで進んだのは、地方のボスで大地主の「郷紳」が革命側についたからだった。
革命軍の先頭に立ったのは貧農か流民だが、彼らの鉾先が自分たちに向くのを恐れた郷紳は、保身のために革命に加わった。
郷紳は、清朝が政治改革をして権力を中央政府に集中させる中で、清朝から心が離れていた。
地方分権を生命源とする彼らは、清朝を見限ったのである。
独立を宣言した省は、その代表者たちが1911年11月末に上海に集まり、ヨーロッパから帰国したばかりの孫文を「臨時大総統」に選んだ。
そして1912年1月1日に、南京にて「中華民国・臨時政府」が生まれ、五色旗を国旗とした。
1月末には立法機関として「臨時・参議院」が開かれ、『臨時約法(仮の憲法)』を可決した。
ここに、中華民国が南京を首都として誕生した。
この1912年をもって民国元年とし、太陰暦を廃して太陽暦を用いて、革命の起きた10月10日を建国記念日とした。
一方、清朝政府は、河南に隠退していた袁世凱を、革命勢力を倒す将軍に起用しようとした。
清朝の皇族である載灃(醇親王)は、さきに袁世凱を失脚させていたのだが、革命を潰すために袁世凱の武力に頼ることにした。
だが袁世凱はなかなか動こうとせず、やむなく載灃は摂政の地位から降りて、袁世凱を内閣総理大臣に任命した。
最高権力を手にした袁世凱は、ようやく動いて、腹心の馮国璋と段祺瑞を南下させて、たちまち漢口と漢陽を取り戻した。
袁世凱はそのまま革命軍を潰滅できただろうが、それ以上は軍を進めず、革命軍と和平交渉を始めた。
これは、天下を獲ろうと計をめぐらせたのである。
革命派たちは、袁世凱の軍に倒されるか、袁世凱を大総統に任命して臨時政府を守るかを迫られた。
リーダーの孫文は、「清の皇帝を廃位させたら、臨時大総統の地位を袁世凱に譲る」と、袁世凱と約束した。
袁世凱は進軍していき、1912年2月12日に清朝の皇帝(宣統帝)の溥儀を退位させた。
溥儀は、「帝号を廃さず、年金をもらって紫禁城(王宮)に住み続けること」を条件に、退位に同意した。
ここに清朝は滅んだ。
中国で2000年以上も続いてきた専制君主制が終わり、民主共和制の政治が始まることになった。
しかし実際には、まだ民主共和制は名目だけで、すぐに袁世凱の専制政治が始まることになる。
袁世凱は、1912年3月10日に北京で、臨時大総統の就任式を挙げた。
孫文は、袁世凱が独裁者になるのを恐れていたから、「大総統になるのは南京で行うこと」「政府は南京に置くこと」を、大総統を譲る条件にしていた。
革命派の地盤は中国の南部にあったから、袁世凱を南部に連れてこようとしたのである。
南京の臨時・参議院は、袁世凱の専制を抑えるために急いでつくったもので、人事や宣戦や条約締結で大総統の専断を許さず、参議院の議決が必要になっていた。
しかし袁世凱は上記のとおり、北京で大総統に就き、政府も北京に移してしまった。
(以下は『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋
2020年12月13日にノートにとり勉強
2026年11月3~5日に作成)
1911年10月10日に湖北省の武昌で、現地に駐屯する新軍(新式の清朝軍)が反乱を起こした。
現在ほとんどの教科書は、この日を辛亥革命が始まった日としている。
翌日には湖広総督・衙門(がもん、官庁の意味)が占領され、清朝からの独立を宣言した。
そこから1ヵ月以内に、中国全土の18省のうち、14省が独立を宣言した。
独立しなかった4省は、直隷省、河南省、山東省、甘粛省である。
さらに、新設されて数年の奉天省・吉林省・黒龍江省の「東三省」(いわゆる満洲)も独立宣言せず、新彊省も独立宣言しなかった。
独立しなかった省は、華北の中枢部と西北部、それに満洲の全域にあたる。
直隷省は、直隷総督だった袁世凱にとっては基盤となる地である。
河南省は袁世凱の出身地で、山東省もかつて彼が巡撫だった所だ。
つまり独立宣言しなかった4省は袁世凱の勢力圏だった。
また満洲は、清朝の故郷の地である。
満洲では、辛亥革命の直前の1910~11年に、錫良・東三省総督の下で大きな人事異動があった。
駐屯する北洋軍の第六鎮・統制(師団長に相当)に呉禄貞が任命され、第二〇鎮・統制に張紹曾が任命された。
さらに二協の協統(旅団長に相当)に藍天蔚が任命された。
この3人は革命派の将校で、日本の陸軍士官学校に留学した経験があり、「士官三傑」と称されていた。
錫良は、日露の圧力に屈せず米国からの借款で鉄道敷設を試みるなど、有能な行政官だった。
しかし国会開設の運動に共感するなど、清朝の意向から外れた言動をしたことで、危険視されて1911年に辞めさせられて、趙爾巽に交代した。
趙爾巽・東三省総督は、辛亥革命の報せを聞くと、すぐに巡警局を通じて新聞に革命関係の記事を載せるのを禁じた。
日本総領事に依頼して、満洲の日本語新聞にも同じ措置をとらせた。
これにより満洲の革命派は情報を得られなくなり、蜂起するかを迷った。
当時の満洲の革命派には、有利な点と不利な点があった。
まず有利な点は、馬賊の呼応が期待できること、駐屯軍の指揮官に革命派の将校である「士官三傑」がそろっていたことだ。
さらに関東州や満鉄(満洲鉄道)の付属地は、治外法権エリアであり、そこを利用して脱法的に武器購入や兵士募集ができた。
逆に不利な点は、情報が途絶したこと、駐屯軍は元々は袁世凱の率いる北洋軍であり指揮官の命令に従うか不明なこと、満洲に駐屯する3万人の日本軍がどう動くか分からないこと、であった。
結局のところ満洲の革命派は、若い張榕を中心に蜂起することになった。
元馬賊の張作霖の軍隊を奉天省城に入れるよう建言したのは、袁金鎧である。
趙爾巽はこれを容れて、張作霖の率いる320名ほどの軍が入城した。
趙が自由に動かせる軍を得たことで、革命派は不利になった。
「士官三傑」のうち、張紹曾と呉禄貞は蜂起して、北上してきた革命軍を迎えて清朝軍と戦った。
しかし呉禄貞は11月7日に暗殺されて、彼が率いていた第六鎮は袁世凱の統制下におかれた。
以後の張紹曾は苦戦を強いられた。
三傑のうち藍天蔚は、蜂起に失敗した上に、11月14日に二協の協統を解任されてしまった。
そして二協は趙爾巽の直轄軍となった。
解任された藍天蔚は、自警団や馬賊を誘って蜂起し、奮闘した。
だが満洲の心臓部である奉天省城は趙に掌握され、その警備は張作霖に任されたので、つけ入る隙がなかった。
張榕は、袁金鎧と親戚で親交があった。
袁は中立派と見られていて、張榕はついつい心を許したらしい。
袁金鎧から張榕の蜂起計画を知らされた趙爾巽は、張榕ら3人の革命指導者を宴会に招き、その帰途で張作霖に襲わせて暗殺した。1912年1月23日のことである。
藍天蔚は、不利な状況を打開するため、いったん戦場から離れて上海へ赴き、孫文に援軍を求めた。
そして北伐軍の総司令に任じられて、千名ほどを率いて遼東半島に上陸したが、袁世凱(清朝側)と孫文が和議した結果、3月に撤退した。
ここで張作霖のことを書く。
張作霖は、錫良が東三省総督だった時期に、配下たちを奉天講武堂という士官学校に送って教育を受けさせつつ、奉天省城の情報を報告させていたという。
さらに彼は、独自に洮南府で土地を買収して、製油業や両替商を展開した。
当時は清朝の末期で、軍人への給与が滞りがちだったから、軍人が副業を持つのはむしろ当然だった。
錫良の遺稿を読むと、彼は張作霖の属する第二〇鎮に配慮し、北京政府(中央政府)に送金すべき塩税の収入を全額流用して第二〇鎮に渡している。
これも、軍人への給与が滞っていたからだろう。