(『和平は売国か ある汪兆銘伝』山中徳雄著から抜粋)
汪兆銘(おうちょうめい)は、1884年に広東省で生まれた。
彼は、孫文が組織した「同盟会」の機関紙『民報』が発行されると、そこで革命的な論文を展開した。
そのときから筆名を精衛とし、これを号とした。
(※汪兆銘は、本などで汪精衛と書かれることがある)
汪兆銘は末子で、彼が生まれた時に父は60歳だった。
兆銘が11歳の時に母が、12歳の時に父が亡くなり、その後は長兄の世話になった。。
生前の父は、兆銘が書塾から帰ると、必ず王陽明の『伝習録』を朗読させた。
兆銘の行動性は、「知行合一」を重視した陽明学の影響かもしれない。
汪兆銘は16歳になると、書塾の先生になって、わずかなカネをもらい家計の足しにした。
また、官吏登用の国家試験(科挙)を受け始めた。
彼が19歳の時(1903年に)、広東省では日本への官費留学生を募集した。
これに応募して、日本の法政大学の試験を受けたところ、合格した。
そして官費で留学することになった。
当時の日本は、日清戦争に勝ったことで、清の青年たちの憧れの的だった。
彼は法政大学の速成科に入ったが、卒業しても帰国して官吏になる道を採らなかった。
そして法政大学の専門科に入った。
汪兆銘が法政大学にいる頃、湖南省で革命の蜂起をして失敗した、黄興、宋教仁らが日本に亡命してきて、中国人留学生の教化を始めた。
さちに1905年の初夏に、孫文が来日して講演会を行った。
汪兆銘は孫文の講演会を聞きに行き、同郷の先輩である孫文を初めて目にした。
この時に胡漢民の紹介で孫文と会い、孫文から「近いうちに『民報』という機関紙を出すから、君にも参加してもらいたい」と言われた。
兆銘は、「ぜひ指導をお願いします」と応じた。
孫文はこの後、「同盟会」を日本で結成し、1905年11月に『民報』の第一号が日本で発刊された。
孫文は発刊の辞として、民族、民権、民生の「三民主義」を説いた。
胡漢民も寄稿して、日本の侵略主義を指摘し、「真の日中提携は対等でなければならない」と説いた。
『民報』は中国でも読まれたが、各地で革命蜂起が続発したので、清政府は日本政府に孫文らの国外追放を求めた。
そこで孫文や汪兆銘はハノイに行き、ついでシンガポールに移った。
ここで、後に汪兆銘のライバルになる、蔣介石にも触れる。
蔣介石は、1887年に浙江省で生まれた。
彼は、「少年時代の私はとても腕白だった」と語っている。
1906年に日露戦争で日本が勝利すると、彼は大きな刺激をうけて、日本に行って軍事を学びたいと考えた。
そして日本に行ったが、当時の日本の規定では、中国人留学生が日本の軍隊に入るには中国陸軍部の推薦が必要だった。
だから彼は入隊できず、6ヵ月ほど日本語を勉強しただけで帰国した。
翌1907年に、蔣介石は清政府が創設した「通国陸軍速成学堂」に入学した。
これは日本に留学する機会をつかむためで、1908年に留学試験に合格し、日本に来て「振武学校」に入学した。
蔣介石は1910年に振武学校を卒業すると、新潟県高田町の第十三師団に士官候補生として入隊した。
彼は後に、「ここで学んだものが、将来にとって非常に大切であった」と語っている。
しかし十三師団長だった長岡外史は、「蔣介石は、これといって抜きん出た所はなかった」と回想している。
汪兆銘は1910年2月に、清朝の皇族で清政府の摂政をつとめる載灃の暗殺を企てて、首都・北京に潜入した。
当時の清政府は、1908年に光緒帝が亡くなり、その直後に西太后も亡くなって、載灃の子である溥儀が3歳で皇帝になり、載灃が摂政として実権を握っていた。
汪兆銘は、載灃を殺すことで清朝の瓦解を早めようとしたのである。
汪兆銘は北京に写真屋を構えて、密かに爆弾の製造を始めた。
そして製造すると、深夜に、載灃が通る橋の下に爆弾を埋めようとしたが、通行人に見つかって通報され、逮捕された。
汪兆銘は、法廷で死刑の宣告を受けたが、法廷での弁論をきいた民政大臣(清朝皇族の善耆)が才能を惜しんで減刑したため、獄中生活となった。
汪兆銘が載灃を暗殺すべく北京に潜入した時、連れ添う同志の若い女性がいた。
女性の名は陳璧君である。
陳璧君は、汪兆銘が爆弾の製造に失敗して資金が乏しくなると、カネを集めに東南アジアに出かけた。
その後に汪は逮捕され、彼女は北京へ帰ってきたが獄中の汪と会えなかった。
汪兆銘が獄中にある1911年4月に、同盟会の黄興らが広州の総督署を襲う、「黄花岡の役」が起きた。
同年10月には、武昌で革命軍が蜂起して、辛亥革命が始まった。
清政府は反乱(革命)を鎮めるため、革命党員の大赦令を出した。
こうして汪兆銘は幸運にも、1911年12月に出獄できた。
汪兆銘は釈放されると、すぐさま上海にいる孫文に合流した。
彼は辛亥革命の成功後に、陳璧君と結婚した。
余談になるが、1945年8月に日本が敗戦すると、日本と結んでいた汪兆銘はすでに亡くなっていたが、陳璧君は中国政府に「漢奸」として逮捕された。
孫文らの革命は成功して清朝は倒れたが、新政府では軍事力をもつ袁世凱が権力を握った。
袁世凱は政権を立ち上げると、自分に都合の良い閣僚を集めて、革命(政治改革)を唱える者を厳罰にするとして、革命派の弾圧にのり出した。
中国同盟会の宋教仁は、袁世凱と闘うために力を付けようと各地を回った。
そして同盟会は、「国民党」と改称して、党員の獲得を目指した。
しかし宋教仁は、袁のために1913年3月に上海駅頭で暗暗された。
孫文らは、1913年7月に討袁軍を組織し、一時は南京を占領した。
しかし袁軍に敗れて、孫文は台湾は逃げ、さらに日本に亡命した。
汪兆銘は孫文らと別れて、1人でフランスに亡命した。
当時フランスには蔡元培(さいげんばい)らも居て、汪兆銘は彼らと共にリヨンに中仏大学を創立した。
一方、蔣介石は1913年に、ドイツに留学するつもりで上海にいた孫文を訪ねたところ、反袁世凱の挙兵をするから参加してくれと頼まれた。
そして上記した同年7月の挙兵時に、参謀役で参加した。
敗退後は、蔣介石は日本と上海を往復しながら活動を続けた。
汪兆銘がフランスに亡命中の1914年に、第一次世界大戦が勃発した。
日本はドイツに宣戦布告して、この大戦に参加し、中国におけるドイツの根拠地(植民地)である青島や、ドイツ領の南洋諸島の一部を占領した。
さらに日本は翌1915年に、苛酷な「21ヵ条の要求」を、中国政府(袁世凱)につきつけた。
袁世凱は、自らの帝政(自分が皇帝になること)を日本が支援するとの条件で、21ヵ条の要求を受け入れようとした。
これを見て孫文は、再び討袁軍を組織して、フランスにいる汪兆銘にも檄をとばした。
汪は急いで帰国した。
ところが袁世凱は急死して、その後の中国は軍閥が割拠して争う時代に入った。
汪兆銘は、袁世凱の死後にフランスに戻ったが、1916年に国民党員が広東で、「広東軍政府」を創ることになると、帰国して参画した。
広東軍政府は、孫文が大元帥に選出された。
(2024年6月4~5日に作成)