孫文の死、国民党の内紛と分裂、蔣介石の北伐

(以下は『和平は売国か ある汪兆銘伝』山中徳雄著から抜粋
2026年6月6日に作成)

🔵孫文の活動、大アジア主義、孫文の死

1921年に孫文は、広東政府の大総統に選ばれ、10月に軍を率いて北伐に出発した。

この時、汪兆銘は広東政府に戻っており、教育委員や最高顧問として孫文を助けた。

ところが翌22年に、孫文の部下が北方の軍閥と通じて謀反を起こし、孫文は軍艦「永豊」に乗って逃げることになった。

孫文は香港を経由して上海に行き、汪もこれに同行した。

孫文はここに至って、中国国民党の改組を決意し、1924年2月に第1回・全国代表大会を開いて、中国共産党員の入党を認め、新しい綱領を制定した。

そして農民運動講習所や、黄埔軍官学校を創った。

1924年には孫文に対し、北京の臨時政府から招請があった。

そこで彼は同年11月に出発して、まず日本に向かった。

孫文はこの時に日本でいくつかの講演をしたが、「大アジア主義」と題するもので、こう述べた。

「アジアの文化は王道の文化で、仁義と道徳を中心としている。
これに対し欧州の文化は覇道の文化で、功利と強権を中心としている。

東洋の道徳は欧州より優れている。

われわれアジアの民族は、王道を基礎にしなければならない。

日本は欧米の覇道の文化を学んだが、アジアの王道文化も持っているはずだ。

日本国民は、欧米の覇道の番犬となるか、アジアの王道の砦となるかを慎重に選択しなければならない。」

そして孫文は、「日本は中国が抱える不平等条約を廃除するのを援助すべきである」と説いた。

11月30日に日本を発った孫文は、12月4日に天津に着き、汪兆銘らと落ち合った。

そして張作霖と会談したが、孫子は病床についてしまった。

この時、北京政府の段祺端が外国公使に「従来の不平等条約を尊重する」と話したと聞いて、激怒で孫文は病状が悪化した。

孫文は12月末に北京に移り、翌25年1月にロックフェラー病院に入って手術したが、肝臓癌でどうしようもなかった。

そこで汪兆銘は孫文の遺書を起草し、危篤状態の孫文の賛同と署名を得た。
孫文は3月20日に亡くなった。60歳だった。

孫文が亡くなると、北京政府は北京において国民党の機関紙『民国日報」を閉鎖させて、国民会議の開催も禁じた。

🔵国民党の内紛、権力を奪取する蔣介石

孫文が亡くなった時、その後継者には胡漢民、汪兆銘、廖仲愷の3人の名が挙がっていた。

胡漢民はいかにも革命家らしいタイプで、汪兆銘は文章と弁舌に長けており、廖仲愷は財政に長けていた。

孫文の死後、すぐに広東の国民党政府は内紛に入った。

そして1925年7月に、国民党のボロディン顧問の指導の下で、最初の国民政府が広東にて樹立した。

汪兆銘は共産党員ではなかったが、国民党内の左派に担がれて主席に選ばれた。

汪兆銘が主席になって間もなく、左派に所属する廖仲愷が暗殺された。

これは右派の胡漢民に嫌疑がかけられ、胡は国外追放となった。

これをきっかけに、蔣介石たち右派(反共産主義の派閥)は広東を出て、北京に行った。

広東政府は1926年1月に、第2回・全国代表大会を開いたが、左派が大勝して、中央委員の多数を左派が占めた。

同年3月に、「中山艦事件(国民党の左派と共産党とが艦上で蔣介石の暗殺を企てたという流言)が起きた。

蔣介石は、これを理由にして広州の全市で共産党員に対するクーデターを行ない、ソ連から派遣されているボロディン顧問らを追放した。
しかし中山艦事件は、蔣介石側のでっち上げ事件であった。

この中山艦事件の時に、汪兆銘が蔣介石の暗殺を企てているとの噂も流れて、汪は病気を理由にまたフランスへ旅立った。

汪は権力闘争が起きると、身を引く癖があった。
これが彼を支持する派閥が生まれなかった原因である。

淡泊な所が、汪の長所であり短所でもあった。

汪が居なくなったことで権力を一人占めした蔣介石は、国民党から共産党員の閉め出しを謀った。

🔵蔣介石の北伐、国民党の分裂

蔣介石は、1926年7月に国民党の軍を率いて北伐を開始した。

北伐軍は漢陽を占領し、武漢も占領した。

これにより、広東政府の政治家たちは北上して武漢に集まり、26年10月に「武漢政府」が成立した。

翌1927年の春に行われた、国民党の中央執行委員・第3次全体会議では、左派の計画が議決され、蔣介石の独裁的権力が抑止された。

そこで蔣介石は、新しく南京に「南京政府」をつくった。(※蔣介石は北伐を続けており、上海や南京を占領していた。)
こうして国民党は完全に分裂した。

蔣介石の南京政府は、兵士が暴行や掠奪を次々と起こし、国際問題となった。
すると蔣介石は、汪兆銘を呼んでその名声を使って事態を解決しようと考えた。

一方、武漢政府のほうも、汪兆銘を呼んで南京政府と対決しようと考えた。

南京政府と武漢政府の両方から帰国をうながされた汪は、帰国を決意し1927年4月1日に上海に着いた。

汪はさっそく蔣介石と会見したが、蔣は「国民党が(復帰していた)ボロディン顧問を再び追放すること、共産党と決別すること」 を強硬に主張した。

これに対し汪は、「共産党員を受け入れる今の政策を変更するなら、中央全体会議を開かなければならない」と答えた。

蔣はこれを受け入れて、「諸政務はあなたに委ねて、私は北伐軍を指揮してあなたに従う」(軍事に専念する)と話し、このことを各省に通達した。

汪は中央政府(武漢政府)を説得するため武漢に入ったが、4月12日に突如として蔣介石は共産党員たちを虐殺するクーデターを上海で決行した。

これを聞いた武漢政府は、蔣介石を免職した。

その後、6月にモスコーから、汪兆銘はコミンテルンの秘密電報を見せられた。

そこには汪と蔣介石を国民党から追放すること、外国が中国に持つ権益を破棄すること、共産革命を起こしてコミンテルンの指導下で国民党を改組すること、が記されていた。

汪は国民党内の左派ではあったが、共産党員ではなかったし、これに怒った。

そこで汪は、蔣介石の下野を条件にして、南京政府との統一を目指した。

しかし12月に広東で共産党の暴動が起きると、汪は責任をとってフランスに去った。

汪は1929年に帰国し、陳公博らの反蔣介石の運動を指揮したが、敗れてシンガポールに逃げた。


「中国史 辛亥革命、中華民国の誕生、その後の内乱」 目次に戻る

「中国史」 トップページに戻る

「世界史の勉強」 トップページに行く

「サイトのトップページ」に行く