張作霖の地方政権

(以下は『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋
2020年12月13日にノートにとり勉強
2026年11月5日に作成)

張作霖の政権で活躍した行政官が、王永江である。

王永江は、遼東半島の南部にある金州で、雑貨店の子として生まれた。
奉天で勉学し、袁金鎧らと学友になった。

日露戦争が起きると、金州には日本軍の軍政が敷かれた。

王永江はこの時、日本軍と協力して「南金書院公学堂」の創立に関わったが、教育方針の違いから辞職した。

その後は、袁金鎧の依頼で日本の警察制度を調べて報告書を出し、これが高く評価されて官界へと進んだ。

1906年に袁金鎧は、「遼陽警務学堂」を創立するため王永江を招き、運営を任せた。

王は警務処長に昇進して、警察行政を担当した。
だがその後、人事に不満を持ち辞職した。

辞職してからも王は、趙爾巽・東三省総督に重用され、機密任務(裏仕事)を任された。情報収集や治安維持工作を行った。

中国では、「義和団事件」、「日露戦争」、「辛亥革命」と、社会を根底から揺るがす出来事が、5~6年の間隔で次々と起きた。

満洲(中国の北東部)に暮らす人々にとっては、正に激動の時代であった。

この世相の中で、張作霖は馬賊から地方軍の指揮官へ、さらに地方政権のトップへと出世していったのである。

辛亥革命の時、張作霖は清朝の地方軍の指揮官だったが、革命後に彼のいた軍は「陸軍第二七師団」に改編された。

彼はその師団長および陸軍中将に任命され、奉天に駐屯することになった。

革命によって新しく生まれた中華民国では、奉天都督は清朝の東三省総督であった趙爾巽が横すべりで就いた。

1912年11月に趙爾巽は辞任したが、この時に袁金鎧も一緒に辞職した。

一方、王永江は各地の税損局長を務めていた。

革命後に張作霖は、軍事力を背景に奉天で台頭したが、それを恐れた袁世凱は内蒙古へ異動させようとした。

しかし張作霖は、袁世凱の部下・段祺瑞に対し「その人事に従わない」と伝え、袁は断念した。

1915年に袁世凱は、部下の段芝貴を監視役として奉天省に送り込んだ。

袁世凱は1916年1月に皇帝の位に就いたが、張作霖はこれを支持した。

しかし袁が苦境になると旗色を変え、 馮徳麟と組んで段芝貴の追い落としを図った。

袁が6月に急死すると、段芝貴は奉天省に居られなくなった。

この追放劇から張作霖が日本軍に爆殺される1928年までが、「張作霖政権期」といわれる地方政権の時代である。

袁金鎧は、1915年の夏頃に奉天に戻り、段芝貴の追放の筋書きを張作霖と共に練ったようだ。

以後の袁金鎧は、張作霖の顧問役として力を振るっていく。

袁金鎧が張作霖に実務官僚として王永江を推薦したのは、段芝貴追放の前後だったらしい。

この頃には張作霖は奉天督軍と奉天省長になっていた。

王永江は、最初は奉天省・医務処長に任じられたが、1916年1月に警務処長と省会警察庁長に抜擢された。

この人事の狙いは、湯玉麟に任されていた警察行政の刷新だった。

湯玉麟は、張作霖と同じく馬賊の出身で、張の盟友である。

湯は放埒な性格で、警官の風紀を取り締れず、警官による民衆への暴力や、アヘン吸飲が横行していた。

張作霖は盟友の湯を排除できず、警察改革を王永江に委ねたのである。

王は日本の警察制度を導入し、各地に派出所を設けた。

王永江は、湯玉麟の部下でも不法を行えば逮捕した。
湯玉麟は抗議したが、張作霖は一貫して王永江を支持した。

不満を爆発させた湯は、1917年1~2月に馮徳麟と共に挙兵を企んだが、動きを察知した張作霖によって3月に旅団長から解任された。

張作霖の軍に追われて逃亡した湯玉麟は、江蘇省・徐州に駐屯する張勲の軍に身を寄せた。

張勲は清朝の復辟を目指していて、1917年6月に北京?で宣統帝(溥儀)を復位させた。

だがこの清朝復辟は短期で終わり、湯玉麟は失意のうちに隠居した。

湯玉麟は1920年の安直戦争で、指揮官として復帰する。

筆者が指摘したいのは、「張作霖は馬賊の体質から脱却を図ったこと」である。

彼の元馬賊の部下たちは、彼が玉永江を起用して湯玉麟を追放した後、自由奔放に振る舞えなくなった。

こうして張作霖の勢力は、地方政権へのステップアップができた。

1917年5月に王永江は、奉天省の財政庁長となった。

一説では、王が就任するまでは毎年200~300万元の財政赤字だったという。

それが王の就任後は黒字化し、1920年には100万元の黒字になったという。


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