(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
司馬炎は236年に、司馬昭と王元姫の子として生まれた。
司馬昭は、魏朝の最高権力者になった人で、父は司馬懿である。
王元姫は、祖父が王朗で、王朗は法律の知識において魏で鍾繇(しょうよう)と並び称された人である。
王朗は、文帝(曹丕)の時代に司空、明帝(曹叡)の時代に司徒と、三公を歴任して228年に亡くなった。
ちなみに王朗の息子・王粛は、学者として有名で、『聖証論』(せいしょうろん)を著し、『孔子家語』(こうしけご) を偽作した。
王粛(王元姫の父)の学説は、晋朝になると皇帝(司馬炎)の祖父であることから重んじられ、影響力も強くなった。
司馬昭が265年8月に病死して、司馬炎が司馬氏の当主を継いだ時、すでに司馬氏とその同調者が魏朝の重職を占めており、若年の皇帝に実権は無かった。
太保の鄭沖(ていちゅう)は、かつて何晏、曹羲、荀顗(じゅんぎ)らと 『論語集解』を編んだ学者で、清貧さから尊敬を集めていた。
司空の荀顗は、曹操の参謀をした荀彧の子で、至孝で知られていた。
司徒だった何曾(かそう)も、至孝で知られた人である。
このように司馬氏の政権は、学問を修めた人や、人望のある人を重視した。
その人の性行を無視し、才幹だけを重視した曹操政権とは、かなり異なる。
賈充、裴秀、荀勖(じゅんきょく)は、かつては曹爽の側近で、そのために司馬懿のクーデターが成功した時に免官された。
だがその後に司馬氏の協力者に転じて、官職に復帰した。
司馬氏に従う驃騎将軍の石苞と車騎将軍の陳騫(ちんけん)は、魏の元帝(曹奐)に幾度も禅譲を求める上奏文を出した。
265年12月13日に、観念した元帝は、禅譲の儀式の準備を命じた。
そして同月17日に司馬炎は、自らが皇帝になる儀式を行った。(武帝の即位)
こうして魏朝は滅亡し、晋朝が始まった。
晋朝が始まるお祝いとして、全国の罪人の刑が減免され、生活困窮者への穀物支給、租税の1年免除、借金の棒引きなどが行われた。
曹奐は陳留王に降格したが、この時20歳で、302年に58歳で亡くなった。
曹氏の諸王たちも、順次降格された。
逆に司馬氏の27人が王に封ぜられた。
このうち司馬懿の子が6人、司馬孚の子が6人である。
(※司馬懿は子だくさんだった。司馬孚は司馬懿の弟。)
鄭沖ら禅譲に協力した者たちも爵位が上がった。
魏朝では文帝の遺命により、曹氏の王たちは官職に就けなかった。
だから陳王・曹植(文帝の弟)が、「県令でもいいから官職に就いて腕をふるいたい」と願い出たことさえあった。
曹氏の王たちは、転封がくり返され、友人や兄弟との交際が禁じられ、目付の監視下に置かれた。
司馬氏が魏朝で権力を握ってからは、曹氏の王たちは鄴に集められて、さらに厳しく監視された。
これが魏の皇帝の孤立化を生み、魏の滅亡の一因になった。
魏を反面教師にしたのか、晋は司馬氏の王たちを官職に就けた。
大都市では司馬氏の王が長官となった。
武帝(司馬炎)は即位すると、魏朝の悪習だった奢侈(しゃし)を改めようとし、265年12月19日(即位の2日後)に倹約令を出した。
地方にいる高官や遠征中の将軍の子を洛陽に人質として置く、「質任」(しちにん)の制度は、段階的に廃止していった。
267年12月に、星気(せいき、天文学や占星術)と讖緯(しんい、予言書) の学問が禁止された。
これは王朝簒奪に利用されるので、危険視したのである。
268年1月に、「泰始律令」(たいしりつりょう)が発布された。
これは3年半かけて完成したもので、2926条、12万6300字で60巻だった。別に故事30巻も編まれた。
泰始律令は、魏朝の明帝時代に陳羣が編纂した、魏律の延長上にある。
泰始律令は後の隋・唐の律令につながるものだ。
晋朝の礼儀については、荀顗の下で165編の「晋礼」が完成し、269年以降に施行された。
なお裴秀が任された官制改革は、上奏に至らず(完成を見ず)、271年に裴秀が亡くなって終わった。
(2025年3月11日に作成)