司馬越が挙兵し、司馬穎と司馬顒を倒す(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
司馬穎(しばえい)は、恵帝の異母弟にあたるが、鄴の都を本拠にしつつ、首都・洛陽に派兵して、司馬倫、司馬冏、司馬乂という同じ司馬一族のライバルを倒してきた。
そしてついに最高権力者となり、傀儡の皇帝である恵帝の下で304年3月に皇太弟(恵帝の後継者)に冊立された。
だがここに至り司馬穎も驕り高ぶり、腹心の参謀である盧志の助言も聞かなくなった。
そして司馬穎の寵遇を受ける宦官の孟玖は、専横を強めていった。
304年7月1日、恵帝のいる洛陽において右衛将軍の陳眕(ちんせん) が百官を召集し、「司馬穎を討て!」との詔勅を示した。
これを裏で糸を引いていたのは、司空の司馬越であった。
司馬穎の部将で洛陽に駐屯していた石超は、この事態に驚き司馬穎のいる鄴の都(鄴城)へ逃げ帰った。
7月4日、司馬越は恵帝を連れて司馬穎の討伐に出た。
これを知った鄴では、司馬繇が「司馬越軍は皇帝を奉じておりますから、降伏すべきです」と説いたが、司馬穎は石超に迎撃を命じた。
7月24日に石超軍は、蕩陰県まで来た司馬越軍を急襲し、大勝した。
この時、恵帝は石超軍の兵士に囲まれ、頬に傷を負った。
恵帝の側に残っていた侍中の嵆紹(けいしょう)は、恵帝を守ろうとしたが兵士に襲われた。
それを見た恵帝は「忠臣である、殺すな」と言ったが、兵士たちは嵆紹を殺し、その鮮血が恵帝の衣に飛び散った。
捕まった恵帝は、翌25日に鄴城内に運ばれた。
敗北した司馬越は生きのびて、封国(領土)である東海国に逃げ帰った。
8月3日、先日に司馬繇が降伏を説いたことを恨んでいた司馬穎は、司馬繇を捕まえて処刑した。
司馬睿(しばえい)は左将軍として恵帝に付き従っていたが、叔父の司馬繇が殺されたので危険を感じ、封国の琅邪国に逃げ帰った。
一方で、司馬越と共に打倒司馬穎で挙兵した陳眕や上官巳らは、元皇太子の司馬覃と元皇后の羊献容を復位させて担ぎ上げ、洛陽を守っていた。
司馬穎と同盟し長安に割拠する司馬顒は、部下の張方に命じて洛陽を攻めさせた。
上官巳は張方軍に敗れて出奔し、張方は洛陽に入って再び司馬覃と羊皇后を廃位した。
王浚は薊県(けいけん)に駐屯していたが独立心を見せたので、司馬穎は王浚の討伐を決めた。
そして腹心の和演を幽州刺史に任命して送り込んだ。
王浚は和演を返り討ちにした上で、鮮卑の段務勿塵(だんむぼつじん)、烏桓の羯朱(けつしゅ)、并州刺史の司馬騰と結んで、司馬穎討伐の挙兵をした。
これは、司馬越の挙兵に呼応するものでもあった。
司馬穎は、王斌(おうひん)と石超の2人に兵をあずけて迎撃させたが、王浚軍に敗れた。
王浚軍が鄴城に近づくと、城内は恐慌をきたし百官や将兵は逃亡した。
司馬穎はわずか数十騎と共に恵帝を連れて洛陽に落ちのびた。
鄴城は、王浚軍に掠奪され、多数の者が死んだ。
王浚軍にいる鮮卑兵は女性を多数掠奪したが、鄴城を去って薊県に帰る際に王浚は「隠し持つ者は斬る」と布告した。
これを受けて隠して持ち帰れない女性たちを鮮卑兵が捨てた結果、8千人も易水(大きな川)に捨てられて溺死したという。
鄴を脱出した司馬穎らは、8月16日に洛陽に着き、張方に迎えられた。
洛陽では、張方が権力を握り、落ち目の司馬穎は政治に関与できなかった。
張方の兵士たちは、洛陽で掠奪を尽くした。
皇帝の宮殿まで掠奪され、宝物が失われた。
張方は、洛陽を捨てて長安に行く(長安にいる司馬顒を頼る)ことに決め、宮殿などを焼き払おうとした。
(司馬穎の側近の)盧志が、「かつて董卓が洛陽を焼き払い、その怨みの声は百年後の今日まで続いています。あなたはそれを真似されるのか」と諫言したので、張方は思い止まった。
張方は、恵帝や司馬穎らを連れて長安に移った。
304年12月24日に、司馬穎は皇太弟の地位を剥奪され、新たに司馬熾(しばし)が皇太弟に指名された。
これは長安を支配する司馬顒の指示であった。
司馬顒は、恵帝の詔勅で司馬越を太傅に昇進させることで、司馬越と和解しようとした。
だか司馬越は和解を拒んだ。
305年7月に司馬越は、長安にいる恵帝を洛陽に帰還させるとの名目を掲げて、再び挙兵した。
これに許昌(予州)の司馬睿と、薊(幽州)の王浚らも加わった。
8月、司馬越は司馬睿を平東将軍に任命し、下邳を守らせた。
同月、司馬越の挙兵を知った司馬顒は、司馬穎を鄴に、呂朗を洛陽に派遣して守らせることにした。
さらに司馬顒は、張方に精鋭10万人をさずけて出陣させた。
この司馬越と司馬顒の戦争は、予州刺史の劉喬が司馬顒側について奮戦したので、当初は司馬顒側が優勢だった。
ところが劉弘が司馬越側につき、戦局は一変した。
劉弘は荊州を治めていて、この内戦を調停しようとしたが、上手くいかず、張方の残虐さを嫌っていたために司馬越側に付いた。
司馬越側は、劉喬に敗れて河北に逃れた司馬虓(しばこう)と劉輿(りゅうよ)が、王浚に頼んで鮮卑・烏桓の騎兵を借りた。
この非漢民族の騎兵が強くて、司馬越軍は司馬顒軍の将である王闡と石超を攻め殺し、兗州刺史・司馬楙(しばぼう)も撃破した。
さらに劉喬の子・劉祐を攻め殺し、劉喬軍を倒した。
これより前、司馬越は和睦を目指して繆播(ぼくは)と繆胤を長安に派遣した。
司馬顒は応じようとしたが、張方が反対したので成立しなかった。
司馬顒は和平に反対する張方を殺すことにし、張方と親しい郅輔(ちつほ)に殺害を命じた。
郅輔は張方の家を訪ねて、張方が油断した瞬間に首を斬り落した。306年1月のことだった。
司馬顒は張方の首を司馬越に送り、和睦したいと伝えたが、戦況から勝利を確信した司馬越に和睦の意思はなくなっていた。
司馬越軍は、鄴を守る司馬穎と洛陽を守る呂朗を一掃し、306年5月7日に司馬顒のいる長安城も攻め落とした。
長安では、司馬越軍の鮮卑兵による掠奪が始まり、2万人余りが殺された。
長安に移されていた恵帝は、洛陽に戻されることになり、6月1日に洛陽に入った。
長安では、司馬顒の部将らが逆襲して司馬越軍を破り、山中に逃亡していた司馬顒を迎え入れた。
しかしこの時点で、長安城を除く全域が司馬越側となっていた。
306年8月に司馬越は、恵帝を輔政する地位(実質には最高権力者)に就いた。
王浚は驃騎大将軍・幽州刺史に任命され、さらに軍閥として力をつけた。
同じ306年8月、逃走中の司馬穎は荊州の新野県に逃げ込んだが、ちょうどこの月に 荊州では支配者の劉弘が亡くなり、後継者をめぐって争いが起きた。
そこで司馬穎はさらに別の地に逃走することにし、母と妻を捨てて二子と共に黄河を渡ったが、そこで捕まって鄴にいる司馬虓の所へ送られた。
10月に司馬虓が急死すると、その部下の劉輿は、詔勅だと偽って司馬穎に死を命じた。
司馬穎の享年は28歳。ずっと付き従っていた盧志が葬式を営んだ。
306年11月17日に、恵帝は餅を食べて食中毒をおこし、翌18日に亡くなった。
48歳だった。
これは司馬越が毒殺したとも言われている。
司馬越は、司馬熾を新たな皇帝に就けた(※懐帝の即位)。
恵帝の治世(290~306年)は、内乱・内戦の連続であった。
これは彼が暗愚だったからである。
恵帝が亡くなった直後に司馬越は、長安にたてこもっている司馬顒に対し、司徒に任命すると言って和平を持ちかけた。
これは罠で、長安から出てきた司馬顒を、司馬模が司馬顒の三子ともども殺した。
(※司馬顒の享年は分かっていないようだ)
これが12月18日のことで、ここに八王の乱(司馬一族の権力争いの殺し合い)は終結した。
🔵八王の乱の総括
八王の乱は、司馬衷(恵帝)が即位した後の291年に始まり、306年に司馬越が勝ち残る形で終結した。
八王とは、皇族(司馬一族)で王となっていた、司馬亮、司馬瑋、司馬倫、司馬冏、司馬乂、司馬穎、司馬顒、司馬越の8人を指す。
八王の乱は、王として領土や軍隊を持つ司馬一族の有力者たちの権力争いで、多くの者が死に晋朝をボロボロにした。
八王の乱の原因は、武帝(司馬炎)が自らの後継者に司馬衷という暗愚で輔政(政治の代行者)を必要とする者を指名したことにある。
他にも、武帝が皇族の王たちに軍事力を集中させたことや、武帝が呉を滅ぼした後に慢心して淫虐で奢侈な生活にふけり、堕落した風潮を生み出したことも挙げられる。
武帝は自らの行いで、皇族が私利を追求する風潮をつくった。
それが魏(曹操)の時代から続く競争をあおる風潮と合体して、八王の乱を生んだ。
(2025年11月22日に作成)