タイトル五胡十六国とは
嚆矢となった成漢

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

五胡とは、匈奴、その別種の羯(けつ)、鮮卑、氐、羌という、非漢民族の5族のことである。

彼らは中国の辺境に住んでいたが、漢朝や魏朝(漢民族の帝国)の下では低級の存在として、監督されたり討伐されたりしていた。

それが後継の晋朝になると、晋朝は内戦(八王の乱)で自滅したため、五胡は力を強めて独立した。

その彼らがつくった国々が、後世に五胡十六国と呼ばれるようになったのである。

(※実際には漢族が中心となってつくった国も、五胡十六国の中に含まれている)

晋朝の時代、まず271年11月に匈奴の右賢王である劉猛が并州に攻め込んだが、272年1月に撃退された。

また鮮卑の長となった禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)は、269年頃に反乱を起こし、279年に殺されるまで強盛を誇った。

294年に匈奴の郝散が晋朝に対して挙兵し、上党郡などを攻めた。
これは295年に鎮圧された。

296年に今度は郝教の弟の郝度元が挙兵し、これに誘われて秦州と雍州の氐族と羌族も挙兵した。

彼らは氐族の斉万年を推載し、斉万年は皇帝を名乗った。

晋朝は討伐のため周処を派遣したが、周処は297年に六陌(りくはく)の戦いで戦死した。

299年に孟観が中亭の戦いで斉万年を生け捕りにし、この反乱は終わった。

非漢民族の本格的な自立の動きは、益州(蜀)の地で始まった。

上記した斉万年の反乱と、それに伴う飢饉から逃れて、流民が300年に益州に流入した。

当時、益州刺史は趙廞(ちょうきん)だったが、彼は中央政府からの自立を図っていた。

そこで巴氐(巴に住んでいた氐族)の李特と李庠(りしょう)の兄弟は、流民のリーダーとして趙廞に協力した。
ところが(301年に)趙廞は李庠を殺した。

これに怒った李特は、趙廞を攻め破り、新任の益州刺史・羅尚に従った。

しかし羅尚が流民たちを元の地へ戻そうとしたので、李特たちと戦争になった。

完全に自立した李特は、302年に大将軍・益州牧を自称し、303年には改元も行った。

だが303年2月に李特は敗死した。

李特の後を継いだ息子の李雄は、303年閏12月に益州の最大都市である成都を落とし、益州を制圧した。

李雄は304年10月に成都王を名乗り、306年6月に皇帝となって、国号を「成」とした。

後年に国号は「漢」に変わったので、この国は「成漢」と呼ばれている。

成漢の誕生は、五胡十六国の嚆矢であった。

成漢で興味深いのは、建国した李氏が五斗米道の信者で、建国のさいに丞相に迎えられたのが范長生という道士で、宗教国家に見えることである。

(2025年11月27日に作成)


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