タイトル各地で反晋の挙兵と建国が続く
劉淵の漢(前趙)など

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

益州における(非漢民族の氐族の行う)成漢の建国の動き(晋朝との独立戦争)は、東隣りの荊州にも影響を与えた。

303年に、荊州を治める司馬歆の酷政に対し、蛮族の張昌が反乱を起こしたのである。

荊州では、益州で反乱した李氏(※成漢を建国した指導者)を討伐するため、微発が行われた。
人々は、これを嫌い、張昌軍に加わった。

張昌軍は、樊城にいる司馬歆を攻め殺し、荊州を制圧した。

張昌の勢いは止まらず、彼の部将である石冰(せきひょう)が江州・揚州に攻め込んだ。

また徐州では、封雲が張昌の挙兵に呼応した。

晋朝はこの大反乱に対し、劉弘を荊州刺史として送り込み、予州刺史の劉喬と協力して討伐させた。

劉弘の部将・陶侃(とうかん)の活躍で、304年に張昌は捕えられ処刑された。

石冰も304年に討伐され殺された。

江南では、陳敏が305年に独立国をつくろうとしたが、地元の豪族たちに攻められ307年に鎮圧され殺された。

なお、同年に江南の大都市・建業に送り込まれたのが、後に晋朝の皇帝となる司馬睿であった。

いっぽう并州では、304年に南匈奴の大単于(大首長)となった劉淵が、漢王を自称して独立国をつくった。

なお劉淵の祖父は、後漢末に南匈奴の単于となって黒山賊や袁紹と結んだ於扶羅である。

劉淵の父・劉豹(りゅうほう)は、魏朝で役人(左部帥)となったため、劉淵は若い頃は洛陽で暮らして司馬昭に厚遇された。

劉淵は、父が死ぬと左部帥を継ぎ、八王の乱が始まると司馬穎の傘下に入った。

彼は304年に匈奴の人々から大単于に推載され、魏朝の頃から分割統治されていた南匈奴を再び一つにまとめた。

これは南匈奴の自立であり、劉淵は「漢王」を名乗った。

晋朝から独立した南匈奴は、并州で司馬騰や劉琨の率いる晋軍と戦争した。

晋朝において恵帝が亡くなり懐帝が即位した306年になると、劉淵軍は南下し、華北における反晋勢力の盟主となった。

劉淵軍は、308年5月、309年8月と10月、310年10月と、毎年続けて洛陽(晋朝の首都)に向けて進軍したが、北宮純(晋朝の軍人)らが何とか撃退した。

劉淵は308年10月に皇帝になると宣言し、309年1月に平陽を首都に定めた。(漢の成立)

だが310年7月に劉淵は病死し、後継者争いの後に、息子の劉聡が後を嗣いだ。

(※後に漢は趙に国名を改めた。そのため前趙と呼ばれている。)

山東(中国の北東部)で晋朝と戦ったのは、石勒(せきろく)と王弥であった。

石勒は并州・上党郡に住む羯族(非漢民族)の出身で、并州刺史となった司馬騰の人狩りで捕まり、売り飛ばされて農奴となった時期もある。

彼は農奴の時に、馬牧場で働く汲桑と知り合い、一緒に野盗となった。

八王の乱の渦中で、司馬穎が敗れて長安へ逃げた時、配下だった公師藩は305年に司馬穎の復権のため挙兵したが、石勒と汲桑はこれに加わった。

306年に公師藩が濮陽郡太守の苟晞(こうき)に攻め殺されると、2人は司馬穎の仇討ちを名目に、鄴城にいる司馬騰を攻め殺し、幽州刺史の石尠(せきせん)を殺した。

さらに并州から来た流民集団の「乞活」(きっかつ)と戦った。

石勒と汲桑は、苟晞に攻撃されると、劉淵に服属した。
だが汲桑は苟晞に敗れて、(307年12月に)敗走中に殺された。

石勒は山東に戻り、晋側の太守らと戦い、時には王弥と協力した。

次に王弥を取り上げる。
306年に、青州の東萊郡で県令をする劉伯根が挙兵し、青州刺史の司馬略を破ったが、王弥はこの挙兵に参加して、その後に野盗となった。

307年に王弥は劉淵に服属し、青州と徐州の牧に任命され、鎮東大将軍として晋軍と各地で戦った。

以上のようにこの時期、中国は各地で戦乱となったが、晋朝側に付いた苟晞や王浚や劉琨や張軌という晋朝の地方官たちも、その実体はもう独立勢力の軍閥であった。

それだけ晋朝は弱まり機能しなくなった。

だが并州で戦った劉琨は、兄の劉輿と共に司馬越(※一時は晋朝の最高権力者となった人)から信頼された。

張軌は301年に涼州刺史となり、晋朝側で戦ったが、在任13年で314年に亡くなった。

彼の子孫が、五胡十六国の1つである「前涼」を建国した。

(2025年11月27日に作成)


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