タイトル洛陽陥落、懐帝が捕まり毒殺、
愍帝も降伏し処刑、晋朝いったん滅亡(西晋の滅亡)

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

311年3月に、懐帝(晋朝の第3代皇帝、名は司馬熾)の後見役として権力をふるった司馬越が、駐留先で病死した。

このとき司馬越が率いる軍は、石勒の討伐に出向いていたが、多くの官吏も随行していた。

司馬越から後事を託された王衍(おうえん)だが、彼はその役を固辞した。

そこで司馬範が大将軍となり、軍と民を率いて司馬越の領土である東海国に向かった。

同年4月1日、寧平城にて石勒軍が司馬範軍を襲い、兵や民衆10余万人を殺した。

司馬範をはじめ、皇室の司馬一族の者たちも捕まり殺された。

王衍も殺され、司馬越の遺骸は焼き払われた。

生きのびた者たちも、王弥(※石勒の仲間)の弟に殺され、食べられてしまった。

懐帝と共に洛陽に残っていた部将たちは、上の敗報を聞くと、司馬越の妻・裴妃(はいき)と世子・司馬毗(しばひ)を奉じて、洛陽を出て東に向かった。

これに洛陽の住民の多くが随行した。(※洛陽はすでに何度も王弥らに攻められていたので、住民たちも洛陽を捨てて同行したのである)

ところが(予州の)潁川郡で石勒軍に敗れて、司馬毗をはじめとして、司馬一族の王たち36人(48人ともいう)が皆殺しになった。

捕まった裴妃は売り飛ばされた。

懐帝たちは洛陽に残っていたが、飢饉となって盗賊が横行し、官吏たちも宮殿から出られないほど治安が悪化した。

そこに王弥らの漢軍が攻めてきた。

(※漢は新興国で、皇帝は劉聡。
石勒や王弥は漢に帰順していた。)

311年6月11日に洛陽の宮殿も陥落し、漢軍の将である王弥、呼延晏、劉曜らは略奪をほしいままにした。

懐帝は逃げようとしたが捕まり、幽閉された。

この首都・洛陽の陥落と、懐帝が虜囚となった事で、晋朝はいったん滅亡したと言える。

宮殿陥落の翌日(6月12日)に、皇太子の司馬詮など3万人余りが処刑された。

このあと、晋朝の歴代の墓があばかれ、宮殿や官庁がすべて焼かれた。

亡き恵帝(晋朝の第二代皇帝)の妻である元皇后の羊献容は、劉曜(漢の皇族)の妾にされた。

のちに劉曜が趙を建国(※漢からの改名。前趙と呼ばれる)して皇帝になると、羊献容は皇后となった。
彼女は劉曜の子を2人産んでいる。

懐帝は助命され平陽に抑留されたが、313年の元旦に宴席において腰元の服を着せられ、酌をさせられた。

この光景を見た旧臣たちは泣いたが、それが危険と見られて、懐帝は2月1日に毒殺された。享年30歳だった。

さて。

上記した311年6月の洛陽陥落の直前に、司空の荀藩と光禄大夫の荀組の兄弟(晋朝政府の高官2人)は洛陽を脱出した。

2人は各地に漢打倒の檄文を送り、建業にいる司馬睿を盟主に立てた。

一方で、軍閥の苟晞は、司馬端(元皇太子・司馬覃の弟)を担いで、皇太子に擁立した。

荀藩と荀組は、同じく避難した司馬鄴と出会い、共に長安を目指すことにした。

だか長安では、311年8月に劉曜軍(漢軍の一部)が迫ったので駐留していた司馬模(しばも)が降伏したところ殺害され、長安は漢軍の手に落ちていた。

司馬鄴らは、予州刺史・閻鼎(えんてい)の助けを得て、劉曜が放棄した長安に(312年4月に)入った。

313年の4月1日に長安に、「捕まっていた懐帝が殺された」との報せがあった。

これを受けて、4月27日に司馬鄴は皇帝になると宣言した。(愍帝(びんてい)の即位)

皇帝となった司馬鄴の名を避けて、鄴の都は「臨漳」(りんしょう)に改名された。

愍帝の政府では、始平太守の麹允(きくいん)と索綝(さくちん)が軍事と民政の全権を委ねられた。

この政権は弱く、命令が及ぶのは長安周辺のみであった。

一方で、各地の軍閥たちの争いも進行し、石勒が311年9月に苟晞を殺し、314年3月に王浚も殺した。

長安に対して、劉曜が率いる漢軍が313年10~11月、314年7月と連続で攻撃をかけた。

そして316年8月の攻撃でついに長安の外城を突破され、食糧も尽きたので11月11日に愍帝は降伏を決めた。

愍帝は降伏の礼として、羊車に乗り、肌脱ぎになって、口に璧を含み、宮殿を出て劉聡(漢の皇帝)のいる平陽に向けて出発した。

11月18日に愍帝は劉聡に会見し、稽首(けいしゅ)の礼(頭を地につけて拝礼すること)をとった。

愍帝の側近だった麹允は自殺し、索綝は処刑された。

愍帝は、317年12月20日に殺された。享年18歳。

ここに晋朝は滅亡した。(西晋の滅亡)

なお、懐帝の即位から愍帝の死までの戦乱は、「永嘉の乱」と総称されている。

(以下は『紙の道』陳舜臣著から抜粋)

🔵前趙と後趙

「前趙」は、漢の皇帝・劉曜が、晋を滅亡させた後に、長安に依って319年に国号を「趙」と改めたことから、こう呼ばれている。

劉曜の配下だった石勒は、襄国で自立して同じく国号を「趙」にしたが、329年に劉曜政権を倒したので、「後趙」と呼び分けられている。

後趙は、内乱で351年に滅んだ。

(2025年11月28日に作成)


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