紙の発達(以下は『紙の道』陳舜臣著 1994年10月刊行から抜粋
2026年10月15日に作成)
🔵榖紙、ぼろ紙
ペルシャ語では、紙を「カーガス」と言う。
カーガスは、中国語の「榖紙」が訛ったものという。
「榖」の字は、穀物の「穀」とは違い、左下がノギヘンではなく横棒に木である。
榖はくわ科の落葉樹で、カジノキと読むのが正しく、その樹皮から紙を作る。
中国では後漢の時代から、榖紙、麻紙、網紙があった。
故麻から作るのが麻紙、漁網から作るのが網紙である。
ヨーロッパでは、中国紙は樹皮だけで作られていると思われていて、襤褸(ぼろ)だけで紙を作ったのは15世紀のドイツ人かイタリア人と考えていた。
それがウィーン大学のウィースナー教授の調査で1885年に、ぼろ紙の発明者はサマルカンドに住むアラブ人だと発表された。
ウィーンの貴族のライネル太公は、紙のコレクターで、1877年頃にエジプトで出土した古い文書を10万点以上も入手した。
これをウィースナー教授が調査して1885年に、「8世紀末のサマルカンド紙がぼろだけで作られている」と発表したのである。
ところがスタイン第二次探検隊が発掘した中国紙が、ぼろだけで作られたものと1911年に分かり、それは「4世紀初めの紙」だった。
こうしてぼろ紙の発明者は、4世紀の中国人だと学説が改められた。
シルクロードで発掘調査をした日本の大谷探検隊は、大谷光瑞(1876~1948年)が派遣したもので、1902年から1914年にかけて3回、中央アジアに行って発掘調査した。
彼らは敦煌で見つかった古文書などを持ち帰った。
この大谷コレクションの中に、晋の時代、296年の記年がある、竺法護が訳した『諸仏要集経』がある。
これは八王の乱が始まる前のもので、現存する中国紙の最古のものの1つである。
竺法護は、敦煌の出身で、月氏族の人である。
長く経典の翻訳に従事した。
大谷コレクションには李柏文書もある。
これは楼蘭で出土したもので、李柏という西域長史の手紙の草稿だ。
西域長史とは、西涼の王が派遣した役人である。
🔵前涼
八王の乱の頃、貴族の張軌は戦乱をさけて、辺境の地である涼州の行政長官になった。
張軌は301年に、晋朝から半ば独立した。
それで史家は「前涼」と名付けているが、ローカルな小政権であった。
前涼は、3代目の王・張駿(在位は324~346年)の時に高昌(トルファン)を制圧した。
前述の李柏は張駿の部下で、学者の羽田亨は李柏文書は328~330年の間に書かれたとする。
なお前涼は、376年に滅亡した。