(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
呉は、孫策が江東(江南地方、中国の南東部)を征服して、198年に曹操の上奏により漢朝の「呉公」に封じられた事に始まる。
孫策が殺されると、弟の孫権が継ぎ、赤壁の戦いで曹操軍に勝利した。
(※呉は漢朝に属したが、実質は独立国だった)
呉は、嶺南地方に歩隲(ほしつ)を派遣して服属させた。
呉は、建業もしくは武昌が首都で、220年に魏朝が誕生すると、221年に魏朝に臣従して呉王に封じられた。
222年に蜀漢の劉備軍が呉に攻めてきたが、呉は夷陵の戦いで撃退した。
その後に劉備が死去すると、呉は蜀漢との関係を直して修好し、魏と対立した。
229年に孫権は皇帝となり、呉王朝が始まった。
孫権は晩年の240年代になると、寒人(名門の出身ではない人)を重用して、専制化を目指した。
これにより君臣の間が険悪になった。
(※当時の中国は基本的に名門の者が出世した。つまり重臣のほとんどは名門出身である)
241年に皇太子の孫登が亡くなると、翌年から新しく皇太子になった孫和(そんわ)を支持する「太子党」と、孫権に可愛がられている魯王・孫覇を支持する「魯王党」が生まれて、争った。
この政争は、250年に孫和は皇太子から外され、孫覇は自殺を命じられたことで、一応は結着した。
252年に孫権が死ぬと、呉を支える将軍たちの結束はゆるみ、呉の自壊が加速した。
孫峻による諸葛恪の殺害、孫綝(そんちん)による皇帝・孫亮の廃位といった事件も起きた。
264年に即位した孫晧(そんこう、呉の4代目皇帝)は、自暴自棄の残虐行為を重ねて、呉をさらに弱体化させた。
269年2月に晋の衛将軍・羊祜(ようこ)は、荊州の襄陽に赴任した。
これは呉討伐の布石となった。(※襄陽は呉との国境に近い)
羊祜は、後漢末の文化人である蔡邕(さいよう)の外孫で、司馬師の妻・羊徽瑜と同族の人である。
彼は、蜀漢に亡命した夏侯覇(夏侯淵の子)の娘と結婚した。
彼は、司馬昭の下で参謀をし、晋の法律制定のメンバーにもなった、有能な人である。
272年8月に、呉の将軍・歩闡(ほせん)は、突然に皇帝・孫晧に呼び出された。
歩闡は、父は歩隲で、父の時代から歩家は西陵城を守ってきた。
孫晧が暴君なのもあって、歩闡は突然の召喚に疑念を抱き、晋に兄の子2人を人質として送って投降した。
陸遜の子である陸抗は、歩闡の離反を聞くとすぐに西陵城を攻めた。
晋の武帝(司馬炎)は、歩闡を救援するために、羊祜と荊州刺史の楊肇(ようちょう)を向かわせ、益州の巴東郡にいる徐胤(じょいん)も水軍で長江を下らせて呉に向かわせた。
だが楊肇の3万人の軍は、11月に西陵で陸抗軍に大敗し、晋軍は撤退して西陵城は落ち、歩闡は殺された。
この敗戦の反省から、羊祜は呉を攻める準備として、長江以北に5つの城をつくった。
羊祜は治政の達人で、徳があったことから、呉から投降する者が相次いだ。
呉将の陸抗も羊祜を尊敬しており、自分が病気になった時に羊祜が薬を送ってくると、皆が止める中で「羊祜が人を毒殺するはずがない」と言って服用した。
274年秋に陸抗が病死し、蜀(益州)で晋の水軍が完成すると、いよいよ呉を攻める準備が整った。
羊祜は益州刺史に王濬(おうしゅん)を就けるよう武帝に求め、王濬が益州で水軍を育てて戦艦を造った。
建造した戦艦には、全長174mで2千人が乗れる巨船もあった。
この造船中に、大量の木屑が長江を流れて、それを見た呉の建平郡太守・吾彦(ごげん)は孫晧に報告した。
しかし孫晧は対策をしなかった。
276年10月に羊祜は、満を持して「いま呉を攻めれば倒せます」と上奏した。
武帝は同意したが、奏州・涼州(晋の西北部)で鮮卑の禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)の反乱があり晋軍は連敗していたので、朝廷では支持されなかった。
朝廷では、賈充、荀勖(じゅんきょく)、馮紞(ふうたん)ら多くが反対し、賛成したのは杜預(どよ)や張華らわずかだった。
278年6月に羊祜は、病いをおして洛陽に来て、武帝に会い討呉を説いた。
羊祜は「孫晧という暴君が呉にいる今がチャンスであり、今ならば戦わずとも勝てます」と述べた。
羊祜は病状が悪化し、同年11月26日に死去した。58歳だった。
羊祜は死ぬ直前に、自分の後任として杜預を推挙した。
羊祜が死ぬと、徳があり多くの人に慕われていたので、呉の将士も泣いて悲しんだ。
この約1年後に晋は呉を滅ぼすが、そのさい武帝は涙ながらに「羊祜の功績である」と言った。
杜預(どよ、又はとよ)は、祖父の杜畿(とき)は河東郡の太守をした人で、父の杜恕(とじょ)は荊州刺史をした人である。
だが杜恕は、司馬懿によって罪人に落とされて亡くなった。
杜預は罪人の子として長く仕官できなかったが、司馬昭の娘を妻にしたことで30代でようやく官吏になれた。
杜預は学者としても有名で、彼が注を入れた『春秋左氏経伝集解』は、現在も読まれている。
杜預は羊祜の後任として襄陽に赴任すると、すぐに西陵を攻めて勝利し、西陵督の張政は解任となった。
杜預が2度も討呉の上奏をしたことで、武帝はようやく腰を上げた。
279年11月に呉討伐の命令が出て、20余万人の大軍が出発した。
賈充が大都督となり、全軍を指揮下に置いた。
賈充はこの戦争に反対だったが、武帝が「君が行かないなら私が行く」 と言ったので、しぶしぶ引き受けた。
280年1月に入ると、益州の成都から出陣した王濬の水軍が、唐彬(とうひん)の軍と合流して破竹の進撃をした。
王濬軍は、2月8日に陸景(りくけい、陸抗の子で孫晧の妹を妻にしていた)の水軍を破った。
杜預軍も、2月5日に奇策で都督の孫歆(そんきん)を捕え、17日には江陵城をおとした。
王濬軍は、王戎(おうじゅう)軍と協力して武昌を占領した。
彼らは呉の首都・建業に向かった。
寿春から出陣した王渾(おうこん)と周浚(しゅうしゅん)の軍も、呉の丞相・張悌の軍を破った。
呉の皇帝・孫晧は降伏を決め、3月15日に王濬軍は建業に入った。(呉の滅亡)
提出された呉の記録によると、当時の呉は4州、43郡、313県、人口は230万人で、官吏は3万2千人、兵士は23万人だった。
王濬は寒門(庶民の出)の人で、この時75歳だった。
彼は呉討伐の功労者だが、杜預と共にその後は不遇をかこった。
呉が滅亡したことで、董卓の乱から数えて約90年ぶりに、中国は再統一された。
お祝いとして4月29日に晋は太康と改元した。
朝臣たちは9月に、武帝に封禅の儀式を行うよう求めたが、武帝は辞退した。
武帝は天下統一すると、すぐに「州軍の軍備撤廃」と、「戸調式」(こちょうしき)を実施した。
前者は、州や郡に属する兵士を帰農させるものである。
長く戦時下として州刺史や郡太守は兵を率いていたが、戦争が終わったので刺史や太守を本来の民政長官に戻す政策である。
戸調式は、土地制度と税制度の規定で、土地制度は「占田・課田制」と呼ばれている。
(2025年3月11~13日に作成)