タイトル武帝(司馬炎)の愚政
司馬攸の憤死、武帝の荒淫死

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

280年に晋が呉を攻め滅ぼして中国を統一すると、太平の世が期待された。

だが早くも282年12月13日に大事件が起きた。

皇帝(武帝)が、弟である司馬攸(しばゆう)に対して、「封国である斉国へ行け」と勅命したのである。

司馬攸は、晋の初代皇帝である武帝(司馬炎)の10歳下の弟で、幼い頃から賢く、才能・人望ともに司馬炎を上回っていた。

2人の祖父である司馬懿は、司馬攸のほうに期待し、長男・司馬師に男子がなかったので司馬攸をその後嗣に定めた。

(※司馬炎と司馬攸の父は、司馬昭である。
司馬昭は司馬師の弟。)

司馬昭もまた、晋の皇帝になるのは司馬攸であるべきだと、生前に語っていた。

結局のところ、司馬昭は重臣である何曾(かそう)、裴秀、賈充、山濤らの意見をいれて、司馬炎を自らの後継者とし、司馬炎が晋の皇帝になった。

武帝(司馬炎)は、同じ母から生まれた唯一の弟である司馬攸を重用したが、自らの子で皇太子の司馬衷(しばちゅう)が暗愚なため、司馬攸を危険視もしていた。

275年末から276年初めにかけて、洛陽で伝染病が大流行し、人口の半分以上が死んだ。
この時、武帝も死にかけたが、朝臣たちは司馬攸を後継者として期待した。

こうした事から武帝は、息子・司馬衷を守るため司馬攸を排除する気になったらしい。

282年1月に重臣の張華は地方に飛ばされたが、その原因は武帝の後継者に司馬攸を推したことだった。

賈充は、娘の1人を司馬衷に嫁がせ、もう1人(賈南風)を司馬攸に嫁がせた。
賈充は282年4月に亡くなった。

司馬攸が斉国に行くよう命じられた時、王渾は反対し、武帝にこう諫言した。

「司馬攸を陛下の腹心として政治に与らせるべきです。
兄弟は心から打ち解けるのが道理で、あなたの父母もそれを望んでいたはずです。

古来から、政治を外戚に任せると災いがあります。
もし肉親にさえ疑惑を持つならば、臣下たちはどうして身を保つことができますか。

人々に危惧をいだかせるのは、国王が最も忌避すべきことです。」

他にも司馬一族で最も俊望と見られていた司馬駿や、武帝の寵臣で機密に与っていた羊琇(ようしゅう)らも、武帝に諫言した。

だが武帝はこうした諫言を無視し、羊琇は左遷された。

曹志は、父・曹植が魏朝において冷遇されたことと重ね合わせて、司馬攸に同情し、武帝に思い止まるよう上奏した。

だか武帝は激怒し、曹志は免官になった。

283年2月に入ると、司馬攸は怨みから発病した。
そして斉国に向け出発して2日後の3月14日に、血を吐いて亡くなった。36歳だった。

この事件の後、朝廷内で諫言する者が無くなり、司馬攸を擁護した者たちは冷遇された。

さらに司馬攸を封国に移すよう入れ知恵した荀勗と馮紞も、武帝から疎まれるようになった。

荀勗は失意のまま289年11月に亡くなった。

司馬攸事件で多くの有力者が失脚した後、権力を握ったのが、武帝の外戚の楊駿と、その弟である楊珧(ようよう)と楊済(ようさい)であった。

武帝の最初の正妻(皇后)は、楊艶(ようえん)で、彼女が皇太子・司馬衷を産んだ。

楊艶と楊駿らは同じ一族である。

ちなみに272年2月に司馬衷の妃を決める時、武帝は衛瓘(えいかん)の娘を考えたが、楊皇后がさかんに賈充の娘・賈南風をすすめたので、賈南風に決まった。

楊皇后(楊艶)は274年7月6日に病死したが、死ぬ前に武帝が寵愛している胡貴嬪(こきひん)が次の皇后になると司馬衷の立場が危うくなると考えて、こう武帝に頼んだ。

「私の叔父・楊駿の娘は立派なので、彼女を次の皇后にして下さい」

泣いて頼む妻にほだされた武帝は、言われるままにその娘・楊芷(ようし) を次の皇后に指名した。

楊芷は276年10月に皇后になったが、その父・楊駿は一気に出世して、外戚として権力を持った。

楊芷はその後、283年に司馬恢を産んだが、司馬恢は翌年に亡くなった。

なお上述の側室・胡貴嬪は、本名は胡芳で、祖父の胡遵と父の胡奮は将軍として活躍した人である。

武帝は好色な男で、後宮はしだいに肥大化した。

彼は後宮に入れる娘を選ぶため、一時的に天下の婚姻を禁止したことすらある。

宦官を派遣して各地で名族の娘を探し、洛陽に集めさせた。

彼は呉を滅ぼした時、呉の後宮から5千人を選んで自らの後宮に入れたが、その結果、後宮は1万人近い数に倍増した。

289年11月に、武帝は荒淫がたたり重病になった。

この時期、楊駿は政敵になっていた司馬亮と衛瓘の排斥を行った。

司馬亮は許昌に転勤となり、衛瓘は辞職に追い込まれた。

同じ時期に、武帝の子や孫は各地の王に封建された。
これは王佑(おうゆう)が武帝に献策したことで、楊駿の王朝簒奪を防ぐ意図があった。

290年3月になると武帝は危篤になったが、まだ遺言はなかった。

武帝の病室には楊駿だけが入れて、他の朝臣は近付けなかった。

武帝は、「司馬亮と楊駿の2人が司馬衷を輔政するように」と遺言した。

ところが楊駿は遺言書を隠してしまった。

重体の武帝の意識がはっきりしなくなると、皇后の楊芷は「楊駿だけに輔政させるように」と求め、武帝は頷いた。

これを受けて4月12日に楊皇后は、楊駿に全権を与える遺言書を作成させた。

武帝は4月20日に55歳で亡くなった。

武帝がきちんと政治を行ってこなかったため、この後、晋は内乱になる。

(2025年3月15日に作成)


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