(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
晋の武帝(司馬炎)が亡くなった290年4月20日に、皇太子の司馬衷が後を継いで即位した。これが恵帝である。
恵帝は259年生まれで、暗愚なことで知られていた。
武帝も息子・司馬衷の能力を心配していたが、司馬衷の子(※つまり孫)の司馬遹(しばいつ)が聡明な点に期待していた。
司馬衷が即位すると、輔政の任に就いた楊駿(※司馬炎の妻の父。だが司馬衷の祖父ではない)が最高権力者となった。
楊駿のライバルだった司馬亮は、楊駿を恐れて武帝の葬儀に出席せず、夜陰に紛れて洛陽を出て許昌に去った。
楊駿は人気取りのために、爵位の大盤振舞いをし、租と調を1年間免除した。
楊駿は、甥の段広(だんこう)と張劭(ちょうしょう)ら身内を要職につけるなど、専制体制を敷いた。
恵帝の正妻(皇后)である賈南風(かなんぷう)は、残虐な性格で、嫉妬から数人を殺していた。
戟(ほこ)を身重の側室に投げて、母子共に殺したこともある。
楊太后(楊芷、司馬炎の妻)は、しばしば賈南風に訓戒を垂れたが、賈南風は逆恨みを深めていった。
楊駿と楊太后を排除したい賈南風に協力したのが、孟観、李肇(りちょう)、董猛である。
彼らは司馬亮に連絡して楊駿を討伐させようとしたが、司馬亮は断わった。
次に宛県にいる司馬瑋(しばい)に話を持ちかけたところ、司馬瑋は快諾した。
司馬瑋と司馬允は291年2月20日に、首都・洛陽に入った。
291年3月8日の夜、孟観と李肇は戒厳令を出し、恵帝に「楊駿を解任させる」との勅書を出させた。
楊駿はこのクーデターを知らされると、朝臣を召集して協議した。
朱振は「この変事は宦官どもが皇后のために仕組んだものでしょう。皇太子(司馬遹)を担いで宮中に入り、悪人ども捕えるべきです。」と進言した。
だが楊駿は決断せず、朝臣たちは「宮中に戻ります」と言って、去ってしまった。
しばらくしてクーデター派が楊駿を襲い、突き殺した。
賈皇后(賈南風)の命令で、楊駿の弟である楊珧と楊済、楊駿の甥である張劭や段広らは逮捕され、三族ともども処刑された。
楊珧は首切り役人に殺されるまで、やむことなく泣き叫び続けた。
死者は数千人に及んだ。
文淑(旧名は文鴦、文欽の子)も、一味と見られて殺された。
賈皇后は、楊太后を幽閉し、庶人の身分に落とした。
さらに楊太后の母・龐氏の処刑を命じた。
楊太后は、母の処刑日が迫ると泣き叫び、髪を切って頭を地にこすり付けて賈皇后に母の命請いをしたが、賈皇后は無視した。
龐氏を殺すと、賈皇后は楊太后に食べ物を与えず餓死させた。
楊太后(楊芷)は292年2月1日に死んだ。34歳だった。
迷信を信じる賈皇后は、楊太后の霊を恐れて、死体の顔を覆わせてお札や薬物を加えた。
(2025年3月15日に作成)