タイトル賈皇后や司馬瑋のクーデター
司馬瑋も殺される

(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)

恵帝の輔政役(摂政)として権力を振るった楊駿が、291年3月にクーデターで殺されると、司馬亮と衛瓘が輔政役を継いだ。

司馬亮も前任者の楊駿と同じく、人気取りのため爵位の大盤振舞いをし、侯爵になる者が1081人にも上った。

心ある人々は、楊駿の政治と変わらない事を憂えた。

司馬繇(しばよう)は、楊駿らを殺すクーデターで活躍したが、直後の291年3月27日に罪を着せられて帯方部に流された。

この失脚は、司馬繇の兄・司馬澹(しばたん)が自分よりも優れている弟を憎み、讒言をくり返していて、その訴え司馬亮が受け容れたものである。

司馬亮と衛瓘は、司馬瑋(しばい)も失脚させようとしたが、司馬瑋は反撃に出た。

司馬瑋の部下である公孫宏と岐盛は、「司馬亮と衛瓘が賈皇后の廃立を考えている」と、賈皇后に注進した。

司馬亮と衛瓘が恵帝の補佐役になったことで、政治が自分の思い通りにならないと思っていた賈皇后は、2人を殺すことに同意した。

291年6月に賈皇后は、夫である恵帝に「司馬亮と衛瓘を免官にせよ」との命令書を書かせて、司馬瑋に届けた。

これを受けて司馬瑋は軍を召集し、司馬亮の太宰府を攻めた。

司馬亮の部下の李竜と劉準は、「防戦すべきです」と進言したが、司馬亮は「私に二心はない」と言って戦わなかった。

司馬亮は捕まって殺されたが、捕まった時に「私の赤心を天下に示す」と言ったという。

衛瓘も逮捕されて、直ちに殺された。

岐盛は、「このまま賈皇后とその一味を攻め殺しましょう」と司馬瑋に説いたが、司馬瑋は迷った。

一方、張華は賈皇后に「このままでは司馬瑋が権力をすべて握ります。誅すればよろしいでしょう」と進言した。

賈皇后はこれに同意した。

張華は、王宮(※人名である)に騶虞幡(すうぐはん)を授けて、「司馬瑋は詔勅を騙っている。彼に従ってはならない」と触れさせた。

騶虞幡は、晋朝において戦闘停止を命じる皇帝の旗で、それを見た司馬瑋軍の将士は武器を捨てて逃げ出した。

孤立した司馬瑋は捕まり、6月13日に斬刑で殺された。

司馬瑋は処刑される前、懐中から詔勅を取り出し、「冤罪です」と涙ながらに言ったという。

司馬瑋の部下の公孫宏と岐盛も、三族もろとも殺された。

291年3月と6月の2度のクーデターを経て、賈皇后が権力を一手に握った。

ただし彼女は兄弟がおらず、楊皇后における楊駿のような絶大な権力を持つ血縁者は作れなかった。

このクーデターで殺された司馬亮と司馬瑋は、「八王の乱」の八王に入っている。
だからこのクーデターは、300年に本格的に始まる八王の乱の前哨戦とも言える。

(2025年3月15日に作成)


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