(以下は『司馬炎』福原啓郎著から抜粋)
クーデターで司馬亮と司馬瑋を殺し、最高権力者となった賈皇后(賈南風、恵帝の妻)。
彼女が夫である恵帝の輔政役(摂政)に選んだのは、張華だった。
張華は博学で人望もあったが、寒門(庶民)の出身なので賈氏の支配を脅かす恐れが なかった。
賈皇后の一族は出世したが、賈模(かも)も賈皇后の父・賈充の従子なので、そのことから一気に侍中まで昇進した。
だが次第に賈皇后から嫌われ、憂憤のあまり病死した。
291~300年の晋朝は、賈氏が支配した時期だが、拝金主義が風靡した。
魯褒(ろほう)が著した『銭神論』は、当時の上層社会の拝金主義を、銭を神になぞらえて揶揄した書である。
『世説新語』には、当時の貴族や高官の吝嗇と奢侈が書かれている。
吝嗇の代表は王戎で、奢侈の代表は石崇と王愷だった。
貯めこむのも散財も、私欲に基づく事で共通しており、こうした利己的な私欲が八王の乱の原因であった。
なお散財と奢侈は、貴族の間で名声を得る手段ともなっていた。
そもそも拝金主義は、後漢末期の宦官が政治を牛耳っていた時代からあり、それが魏と晋の時代にも続いたのである。
『銭神論』は、「仕官するには金銭の賄賂が必須である」と述べているが、当時はそれが横行していた。
ちなみに後漢末期には売官が公然と行われており、曹操の父・曹嵩(そうすう)は太尉の官職を1億銭で買っている。
魏や晋の時代は、権力者に金銭を渡して官職に就けてもらう者が跡を絶たなかった。
この悪習を無くすため、当時の官吏の就職制度である九品官人法の撤廃を求める運動があった。
夏侯玄や衛瓘らの同法への批判である。
晋朝では賄賂が横行し、誠実な者は官途が絶たれ、そしりへつらう連中が出世して、たがいに推薦し合う状況だった。
その中で出世した第一人者が賈氏である。
賈氏の賈充は派閥を作り、任愷(じんがい)の派閥と抗争して勝った。
その結果、賈充の娘(賈南風)は皇太子・司馬衷の妻となり、もう1人の娘は司馬攸(武帝・司馬炎の弟)の妻となった。
賈充の最初の妻は、李豊の娘・李婉(りえん)だったが、李豊が誅殺された時に李婉も連座して流刑になった。
後妻として郭槐(かくかい)をめとったが、賈南風はその子である。
郭槐は男子も2人産んだが、2人共に小さいうちに死んだ。
その理由は、乳母と夫が親しくしているのに嫉妬して、乳母を鞭で打ち殺し、その事で乳母になついていた男子2人が寂しさから発病して死んだのである。
郭槐の娘の賈午(かくご、賈南風の妹)は、韓寿に嫁いで韓謐を産んだ。
韓謐は賈氏に養子入りして賈謐(かひつ)となったが、恵帝(司馬衷、賈南風の夫)の外戚として権力をふるった。
賈謐の生活は奢侈を極めた。
また賈南風の従舅の郭彰(かくしょう)も権勢をふるった。
晋朝では、司馬氏の諸王が特権を持って暮らし、貴族の代表だった。
八王の乱は、その諸王たちが主役となった権力闘争の内戦で、諸王の多くが死んだ。
余談になるが、司馬師、司馬昭の同母弟である司馬榦(しばかん)は、重要な地位に就いてもおかしくないのに、ずっと光禄大夫のままで政治に関与しなかった。
彼は奇行で知られ、司馬冏(しばけい)が輔政の任に就いた時に、お祝いとしてたった100銭を贈ったり、司馬越が輔政の任に就いて挨拶に来た時に、こっそり門口から窺ったりした。
晋朝では、「宗師」という独得の地位があった。
これは司馬氏の長老が就き、司馬氏の子弟を訓導した。
司馬の子弟が我がまま放題なので設置されたと思われる。
277年1月に設置され、初代は司馬亮が担い、司馬泰、司馬肜(しばゆう)と継いだ。
司馬倫や司馬穎(しばえい)は、学問を嫌って文字を書くこともできず、こうした状況が宗師を生んだのだろう。
(2025年3月16日に作成)